藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“人に気を遣いたくない。”

最近の究極の思いです。

 

“人に気を遣いたくない。”



とはいえ、先ず、前提として、私があらゆることが気になってしまう / 気にしてしまう性格だ という上で、です。
で、また、私も誰かについ気を遣ってしまうけど、他人も私に対して気を遣ってしまっている っていう前提も込みで、
尚且つ、『人に気を遣っている “程度” 』には行為と認識に個人差がある っていうことを前置きした上で、ですけど。

(ここまで重ねて前置きしてる時点でお察し頂けますでしょうか? と思ってしまいますが。)


なんですけど、これ私が他人を思いやっている というよりかは、私が他人からいい人と思われたいとか、他人から否定的なことを言われたくないから っていう、私のエゴなんですよねぇ。
自己防衛ですよ。
あとは仕事的に『こうしておいた方が周りが円滑になりやすいだろう』と思って気を回したりするんですけど、

でも、それも他人によってはそれが理想とは思えなかったり、私以上に考えてる人がいたり、一方でなんにも考えずに享受してる人もいるワケで、
あらゆる立場 /  条件 / 状況を考慮して考えてはみるけれど、それが何とも思われてなかったり、何とも思われてないことで悲しさを感じてしまったり、これだけ私なりに立ち回ってもそれが当たり前だと思われるのはイヤだな って感じてしまったり、

……っていうことを込みで、の、

“人に気を遣いたくない。”

です。


で、

自分は、(『人は』と、主語を大きくしてみてもいいのですが)
『自分は正しいことをやっている』
と思って言動を採るもので、
で、その自分の、他人 各個人のそれぞれの “正しさ” に常に沿った / 寄り添った言動を採ることは不可能なんですよ。
だから不満が生じることも必至なんですけど、そのときに、
“声の大きい人” が他者事情を慮ることなく制圧して、声の小さい人を摘み取ってしまうこともあるんですけど、その “声の大きさ” すらも自覚的か無自覚かというのもあるし、自覚して “使っている” 人もいるし、

声を上げるとすぐに叩かれる / 批判されるからと、声を上げることすらも躊躇われてしまって沈黙したままの人がいたり、、、

…という人がいるあらゆる人 / あらゆる方向、双方向にまで

“人に気を遣いたくない。”

んですよ。

でもそれもやっぱり私が批判されたくない / 否定されたくない 、イヤなやつだと思われたくない、いい人だと思われたくてやってるようなもんですよ。

 

批判されたくない、っていうか “感情をぶつけられたくない” っていうか。
(ずっと同じこと書いてるけど)

他人の主張する正しさがあるのは理解できるけど、その為に自分の正しさを主張することも出来ずに、声の大きい人に潰されないように気を回さなきゃいけない ってのが疲れるんですよ。

相手の、私にとって不都合な言葉を私の中に入れたくない。
私には私の正しさがあるのに、それを外に出すことも出来ずに他人の正しさに気を回していたくない。
“人に気を遣いたくない。”


ま、私が気にし過ぎなんですよ。

けど、気にしてしまうことを、気になることを、気にしないようにしましょうだの、鈍感力をつけましょう などと言われてもそれは難儀なんですよ。

tohma666.hatenablog.com

だから、人に気を遣わないようにする、という意思の方でどうにかするしかない っていう。


怒ってくる人は何したって怒ってくるんですよ。
どれだけ安心・安全だと言ってこられても勝手に反応する人は反応するし、勝手に不機嫌をぶつけてくる人はいるし、
そういうのを解消しようと思っても尚、私は病んでしまったんですよ。

気に病むのをやめたいつもりだったのに、尚、気に病んでしまった。

意思を持って無視する。
頑張って無視しよう。

他人の正しさも、期待も一切を無視することに努めたい。