藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“何故大きな声を上げられたら言うことを聞かないといけないのか。”

前も書いた気がするし、そもそもこれはツイッターで得た視点ですけど。

“何故大きな声を上げられたら言うことを聞かないといけないのか。”

『心を学んでいる人』とやらも、大きな声で圧を与えたがっていたんですけど、まぁその、圧を与えたい人のことは置いておいて、

なんでその『大きな声を使う人』、『圧を与えてくる人』の、言うことを いちいち聞いたり、受け入れなければならなかったり、言ってくることがどれだけの理不尽でも勝手な思い込みの価値観の反応であったとしても、それに応える必要があるんだろう。


そもそも、知性を持ってる人間が、『威嚇』とも言えるその言動を用いて萎縮させる / 怯ませる という時点で、納得させられるほどの言い分を用意できてない という、向こうさんが、根拠を揃えてないワケですよね。


なんでいちいち、大きな声を上げる人に屈服しないといけないんだろう。

そうやって、納得のいかないことがあったら、どれだけの勘違いでも思い込みでも知識不足でも、怒鳴ってさえしまえば自分の言い分を通せる と、思ってしまっている 過去の成功体験でもあるのか、
そんな野蛮な成功体験を年齢を重ねても繰り返しておられるとしたら、知性が成長してないワケですよね。
理解することを拒否しておられるワケですよね。

言語を介して相互理解を努めようとすることが出来るはずの人間が… ま、相互理解なんてあり得ないですが、そもそもこうして『怒鳴る』ような人は他者事情をあらゆる視点から推察し背景を理解しようとする意識がなく、
結局腕ずくでどうにかしようとしてる893みたいなものですので。




恫喝でどうにかしようとしている時点で、恫喝している人に対して、健全な関係を築いていこうとするような姿勢が見えない。



その行為を、許す のならば、『心』を知ろうとすらしていないし、
警察も司法もあったもんじゃない。
自己の利益や安全だけしか見てないのなら、公共性も安全性もない。
『稼げる○○』と同じ。


取り敢えず私は、私自身が『反応』に『反応』してしまわないように。
呼吸を深く置いてから声を出すようにしたいですね。

しかし、なんでそこまでして、『大きな声を出す人』に気を遣ってあげなきゃいけないのか とは思いますが。