藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“「幸せの価値観というのは、盾にも矛にもなる」”

cakes.mu

 

 

 

公開された記事が 結果的に2度も炎上してしまったからか、連載が終了となってしまった。

色んな『反応』があった。


受け手の『価値観』や『過去』なのか何かに『反応』して、それが善かれ悪しけれと『反応』に『反応』して広がっていった。
その結果、炎上した記事となった。



初期の連載はよく読んでいて、本も買った。

読んでいてよく感じたのは「自分の人生を生きれば?」ってことで。

>>“表面的にはいろんな相談があったけど、本質的には人の悩みはどれもとても似ている。人の悩みは全て人間関係だ。これはもう結論づけていいぐらいだ。

でも人間関係が悩みの根本の原因ではない。それよりも人の目を気にしていることが引き金となって、悩みの弾丸が銃口から飛び出ている。お金のことや仕事のこと、将来の夢など一見すると人間関係ではないように感じる悩みも、本質的には人間関係の悩みであり、誰かの目を気にしていることが原因だ。”

 

(最終回記事より引用)



他人が色んな『正義』なり『正しさ』なり『価値観』なりをぶつけてくる。
また そのようなことを言われてきた がゆえに縛られてしまって、その『呪い』を誰かにも使ってしまったり。

誰もが『善かれ』と思ってその『正しさ』を繰り出す。

でも、万人に効く『善かれ』は無い。

誰かにとっての『善かれ』は効くかもしれないけど、誰かにとっては『毒』でしかなかったり、
『善かれ』を提供する側にとってはよくても、受け手には合わないこともあるかもしれないし。
まして、ネットで公開された人生相談、仮に相談者にとって良かったとしても、読者の誰かにとっては『悪』でしかないものもあったり。




あくまで、個 人 的 な『最善』や『最適解』を提供するしか出来ない。


どうしても『合わない』ことはある。
どんなに美味しい食べ物でもアレルギーでアナフィラキシーが出る人は出る。

えび そば かに e.t.c... みたいに、いちいちテキストでも、
『このような方にはこのような反応が出るおそれがあります』
って註釈つけていくしかない。
『このあと津波の映像が流れます』
みたいなことを、色んな表現の場で付け加えていかないと、トラウマが刺激されてしまうかもしれない。

(私は親が見てる事件モノのドラマでの恫喝シーンだけでも しんどいときはあるのでね)


「なんでそんなつまんないことで悩むの?」
って人もいれば、
その悩みの所為ですごく苦しんでいる人もいたり。

「何々だと幸せだよね!? だからあなたもどう?」
と、『(自分にとっては)良い』ことだからと薦める人もいたり。



で、仮に合わなかったとしても、いちいち『反応』して『激昂』する必要もないとも思うし。


私はこう思った。私はこう感じた。
あなたにとってはそうなんだ。へー。
でしかない。

でも、あなたにとってはそうなんだ …とされた側で 自分を掬ってもらった感じがしないときには、ないがしろにされた感もあるし。

それでも、『私はそう思った』と思ったのなら、それが『私』にとっての事実。


だからその感じたことを全てだと思って、返す刀で反応せずに、
ただ確認して自分の立ち位置とか在り方の捉え直しでも出来たらいいんじゃないですかね。


最近、求められて『共感』するのも個人的にだるいと感じてるので、
(一方的に私が共感するぶんにはいいけど)
(業務上、必要な共感を しておいて方がいいんだろうな ってときは 共感する作業 をしますけど)

自分自身の『嬉しい』『楽しい』『幸せ』をやっていけたらいいんじゃないですかね。