「人と人との分かり合えなさ」というテーマ自体が同時代性を失っているようにも思えるので、その軸を保持し続けて娯楽大作作るのは無理あるのではないか。
— 5mm / 5Agape (@pycl) 2021年3月14日
誰にも分かってもらえないと気づいて、さあそこからどうするかが第一歩だよな
— オオバ=タン (@obashuji) 2021年3月3日
(娯楽大作作る とかいうくだりはさておき。)
わかり合えなさ についてはずっと書いてきてて。
そもそも分かり合うことが出来る ということは幻想で。
そもそも わかりあえないことが大前提で。
誰かとわかり合うということなんて奇跡で。
そんな孤独感、閉塞感 なんてのは当たり前のように横たわっているものなんだけど、私はいつもそれに躓いてしまうので、
「わかってもらおう」とすることを諦める傾向が強いんですよ。
早い話、言っても無駄だ というやつです。
どうせ声の大きい人に潰される。
私の欲しい『理解』は殺される。
ですが、
『理解』を『求める』とかではなく、
私は “こう” だ ということを少しずつ表明して積み重ねていく。
相手にとっても、私を『理解』しようとしてもらうことを諦めてもらおう。
そこで無理なら離れてもらえばいいし。関わらなければいいし。
「理解できない!」と攻撃してくるような人は縁を切ればいいし。
「しゃーないな」と諦めながらも付き合ってくれる人がいるかもしれないし。
それは知らん。
「どうせわかってもらえない」
「どうせ伝わらない」とは相変わらず思ってるけど、
まぁどうでもいいので、私は、私の今は “こう” だ ということをただやっていくことにします。