いうても私もブログとかツイッターでは『死ね』って書いてるけどね。
さすがに誰かに言うことは、リプライすることは無いですが。
ま、
何度か書いてますけど、理解し難いものには排他的になりがちなのが皆さんじゃありませんかね。(主語デカい?)
昨日の記事じゃあないけどさ。
あらゆる価値観を持った人たちが理性的に話し合い、議論を重ね、お互いを知ることが出来ますでしょうか。
所詮 自分の人生で自分が楽しんで生きられたら宜しいのでしょうから、理解し得ないことには知らぬ存ぜぬでお過ごしになられていることでしょう。心の勉強に精通した方がそのようなお考えでおられることですし。
また、『死ぬ』ことでの生きることの苦しみの解放を望んでいる視点もあれば、
他者に無理解なまま、サンドバッグのように知らぬ存ぜぬで無知を楯に殴り続ける、固定観念のもとにただ他者批判する、苦しませ続ける、それでも生きることは尊い、命は大事 だという通り一遍な方もおられることですし。
人は本当にわかり合えるとお思いか。
わかろうとすることがそれほどに大事か。
以前にも書いたことがあるけど、「わかってもらいたい」という思いが強すぎると、当然「わかってもらえなかった時のダメージ」は大きくなる。
— 外科医けいゆう/山本健人(Takehito Yamamoto) (@keiyou30) 2020年8月25日
だから「そもそも他人には分かってもらえなくて当然」を基本とし、「偶然にも分かり合えそうな部分だけ共有しよう」というスタンスがたぶん楽だと思う。
それくらいが良いのかもしれませんけどね。
たまたま関わった価値観の異なる存在に気軽に罵倒する為に「死ね」と言うのと、たまたま擦れ違った他人がどんな存在であろうとも一切なんの関心も寄せず、苦しんでいても手を貸さずに 放 っ て お く ことで 間 接 的 に『殺す』こととどっちが良いんでしょうかね。
どう人と関わって生きていきたいんだろね。
(私は人がこわいので色々億劫になってますが。)