昨日娘と話してなるほどな、と思ったことを共有。
— Keiko Watari@TQFrontLiners (@ki_engi) 2021年1月8日
娘に「お友達皆とわかり合えると思うか?」と聞いたら「前から思ってたんだけど、ママは他の人のことも自分のこと、他の人のものも自分のものって思ってるんじゃない?前提が分かり合えるから始まってて、分かることが良いことになってるよね。」と。
そして娘は続けて「自分と他の人は違う生き物、全然違うものを信じてるし、仲良くても違う生き物。でもそれだけだと思う。合わないな、嫌だなと思うことはあるけど、初めから違うんだからそれが当たり前だよ。だからママのその質問はおかしいと思う。」
— Keiko Watari@TQFrontLiners (@ki_engi) 2021年1月8日
その後私は言葉がなかなか出ませんでした。
さらに娘は「わかり合えるとわかりたいは違うよ。ママが英語もっと勉強するとその違いがもっと分かるよ。私もわかりたい時はあるし、分かり合えたらもちろん嬉しいけど、わかり合えなくてもそっか分かったってなるだけだよ。ママはEmotional過ぎだよ、日本語がEmotionalなのかな〜?」
— Keiko Watari@TQFrontLiners (@ki_engi) 2021年1月8日
ですと。
そもそも、わかりあえる というのはどういう状態なんでしょうね。
幼少期から良い愛情を受けてこられたからなのか、周りの大人から受容されてこられたからなのかしら と思ってしまうのです。
わかる、わかってもらえる というのが、要望が通る と思っていることもあり得ますし。
共通の言語、共通の認識や、どういったものに価値を置いているのかなど、本当は差異があるものなんですけどね。
わかりあえないことが分かる ということがどういうことか分からない ということもありますし。
わからないことがわかる こととか、そもそも何が分からないことか を認識することが出来るのか というのもありますし。
粗暴や高圧的な文言で、威嚇してみたりして、社会的な階層の上の人が、わ か ら せ て き た り 、
粗暴な言動を採ることが好ましいと考えている人が、わ か ら せ よ う と してきたり。
一方的に わ か ら せ よ う と してくる人がいるのに、もう一方の人は無理矢理に『分かる』を飲み込ませて、
同じ態度で『わかる』を消化していないのに、なにを以って『わかり合う』なのでしょうか。
無理矢理『わかる』を飲み込ませたか、
わかったフリしておいた方が都合がいいから、わかったふうな態度を表しておいて、取り敢えず表層を合わせてスルーする。というのもあるでしょうし。
また、本当に『わかり合った』としても、同じ認識で深さで『わかる』を『わかった』かは分からないし。
わからないことだらけですよ。
そんなに『わかる』ことについてわかってるかどうかなんてわからないし。
他の人がどこまでわかることをわかってるかなんてわからないですから。