また こんなような内容ですけど。
「怒りっぽい性格の人」など存在しない。「怒りという感情をしょっちゅう使う人」なのだ。生まれ変わる必要はない。感情の使い方を変えればいいだけなのだ。 by アルフレッド・アドラー#アドラーのことば
— アドラーのことば (@adler187027) 2021年2月9日
「怒りっぽい性格の人」など存在しない。
— アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学サロン (@PositiveSalon) 2020年8月26日
「怒りという感情をしょっちゅう使う人」なのだ。
生まれ変わる必要はない。
感情の使い方を変えればいいだけなのだ。
わざわざ怒ったり、泣いたり、感情的になっているのは、言葉や行動で説明をすることを省いているだけです。
いますよ。人間の防御反応として自分の不手際(この場合は見込みハズレ)を怒りで誤魔化す人、一杯います。
— ぬこ田ぬこ道(国民脇差協会会長) (@nukomiti) 2021年2月28日
感情は大事ですよね、わかります、
で、その感情を感じることと、感情を表出することは別の話で。(何回書いてる)
感情でギャアギャアと喚き散らすのは動物のような、獣のようなものですよね。
で、もっと 理知的 に、理性的 にと言うと、人間らしくなく、機械的 だという批難もありそうですけど、
もともと 獣的 だと言われてきてたはずなんですけどね。
これ100回言ってる話だけど、「人間らしさ」の定義さえ時代によってコロコロしてるのだ。「機械」登場前は人間性の対義語は「獣性」だったので「人間」は「理性的で効率的な存在」の象徴だったのだが、今となっては真逆なのだ。まったく都合のいい言葉だぜ!「人間らしさ」だの「こころ」なんてものは
— 窓 口 基👽2巻発売中/窓 口 まい (@R_adical) 2019年9月15日
どういう関係を築きたいのか、自分が支配したいのか、支配したい感情は絶対的に無いと断言できるのか。
自分が感じたことが絶対だとして、返す刀で不快をぶつけても良いのか。
強い感情表現とか、みょうに共感を煽りたがるものとかね、目に見えるわかりやすい強い感情を出すもの、
そういうのを受けるとき って結構『喰らう』んですよね、ダメージを。受ける側の感情はどこまで考えられているんでしょうかね。
大きな声で『反応』しなかったからといって、何も感じてないワケではないですし。
何度も何度もこの辺りの話を繰り返してるのは、『心』を尊重しているであろう人たちが、とても『心』を蔑ろにしているように “感じた” からですが。
客観的な事実と、固定観念や思い込みに紐づく感情の反応、それらを紐解いて、自身を省み、人とどのような関係を紡いでいきたいのか。
『心』を尊重したいのか、『人』を尊重したいのか、甚だ疑問でございますゆえに、
断定せずに、向き合っていけたらと思うものです。