藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“罰責 [ばっ‐せき]”

許せないものが増えた。

いちいち小さな矛盾に、小さな言動が引っかかる。
現実ではない、フィクションの作品を見ていても許せないものが増えてしまった。


ずっと思っているのは、
 ご自身が仰っていることを他人に強いておられるのに、自身はそれを守らず放埓である
……という点で。

他人に対しては偉そうに高みの見物で安全圏からモノを申しながら、ご自身はただふんぞり返っておられるだけ。
強権的、高圧的な人、またその傘の下に隠れている人。


私は現実でもフィクションでもそういう存在に対して『反応』するようになってしまい、そういう人が無残で凄惨な死を遂げるか、永劫の苦しみを味わって下さらないと気分が晴れない。

さて、何故『反応』してしまうようになったのか、
何故、いちいち腹を立ててしまうようになってしまったか というと、矢張りそういう人から理不尽な言動を受けてきたがゆえ であると私は思っており。

そういう物言いをなさる方々が跋扈しておられる限り、罰を与え、責めて責めて責め抜いて自責の念が芽生えて自己嫌悪を重ねて自然と息絶えるまで観念を破壊したいほどに思うものです。

もう一つ、高圧的な振る舞いをなさる方が息絶えるほかに、私がそれを許せるときがくるとすれば、
私自身が、高圧的な振る舞いを誰かに屠ることで救われることはあるのかもしれませんね。

早い話が、自分がやられてイヤだったことを他人にやって、憂さ晴らしする というやつですね。
そうしたらスッキリするかもしれませんね。
但し、それを受けた人は新たな呪いを受けることとなり、また別の誰かに同様の振る舞いをしてしまうかもしれませんが。



高圧的な物言いにより、抑圧された感情、
抑圧され、さまざまな方向から「かくあるべき」の価値観を感情論で頭ごなしに吹っ掛けてこられ、
萎縮に萎縮を重ねて収縮してしまった意思は、その 逆 の、
『やってはいけないことをやる』ことで、抑圧は解放されるかもしれませんね。

誰かが被害をかぶるのかもしれませんが、
「だって~」と、かの人みたいに言い訳の固定観念でも使えば良い話ですよね?

「だって」「だって」と、子供じみた自己弁護を繰り返し、
「だって○○のせいだもん」と。
自分は悪くない、

正義 だと、自分を守り続けていれば、
いつまでも責める立場でいられますもの。


許せないものを許さず、自分は抑圧された感情を解放し、『やってはいけない』とされることを やれば、
とても腫れ腫れしく過ごせるでしょうか。