藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“命が大事とか、心が大事とか、愛が大事とか、 2”

tohma666.hatenablog.com

 

なにかにつけて、「心が大事」だと聞くたびにモヤモヤするようになってしまったもので。
相も変わらず。


大事 大事と言いながら、ぞんざいに扱ってるのに何を言っているの…?
勿論、「大事にする」その仕方は人によりけりでしょうけど、大切にされる対象がそのように受け取れなかったら意味が無いのでは…。

何か伝えたいのか。何かが伝わるようにしたいのか。
軸はどっちだ。


勿論、「自分の生活が第一」ですからね。
偽善も欺瞞も使って、保守的に自分優位の生き方をすることはご尤もですもの。

その為に他人に対してゴミみたいな扱いをしたとしても、『自分の “心” 』に従ったのならば何も問題は無い。


自分の命が大事ならば、自己愛が大事ならば、他人なんて知らない。

『命』とはなんだ。
『心』とはなんだ。
『愛』とはなんだ。

あまりにも軽々しく、あまりにもテキトーに扱っておられる。
『命』も『心』も『愛』も人間の中に内包されていると仮定して、その割には多くの人間が自身を省いた ほかの人間に対しての言動というものは、態度というものは、自身の中に内包されていると仮定されているそれを度外視した扱いではないのか?


せいぜい、『命』というものは、外見的に『動いてる』と、そのモノには『命』が “在る” ものだな ということが判別は付くが、
病気や怪我であったりなど、命を脅かす可能性のあるものを孕んでいるかどうかというのは窺い知れない。

窺い知れないから、主観的に『動きに難がある』と見受けられる人に対して、
「チンタラしてる」と罵倒するか、「もしかして疾病を抱えているのか」と慮ることに考えを巡らせるかは、第三者を主観的に見る、その判断に依るところが大きい。

『動きに難がある』と見受けられる人に対して、『心がつらい状態になっている』と判断がつく第三者はいるのかな。

他人の『心』なんて分からないのに?
動きに難が無いかもしれない。難なく見えるように振る舞っているかもしれない。

難なく見えるように振る舞っておかないといけない状況だから難なく振る舞っているだけなのに、それを一見して「大丈夫そうだ」と判断して、辛辣や厳格を浴びせればいい とする第三者もいらっしゃいますよね。

人を生かして? 人を立てて?

どこも人手不足が叫ばれて、機械化なんて進まずに、コロナ禍でリモートが云々と言いながらも旧態依然とした手法を重ねてみたり。

ほんとに人は人を大事にしてるんでしょうかね?

自分を守ることだけに必死で他人を無意識に殺すことに躍起になってませんかね。



知らんけど。
そう、ほんとに、知らん。
知ったことではない。



心があるのかどうかも分からないのに、『心をひらく』とか意味が分からない。
無いものをひらく というのは如何なる哲学的命題か。


取り敢えず自分自身を大事にしていればいい。
気に喰わないそいつも、自分を大事にしたがゆえに表出された言動。

他人が標榜する、命とか心とか愛などに翻弄されず。