藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“命が大事とか、心が大事とか、愛が大事とか、”

命が大事とか、心が大事とか、愛が大事とか、

………とか言ってる人が信じられないんですよ。
うん……、で? っていう。


災害のときに
「命を優先した行動をとって下さい」
って、はぁ…。うん、そうね、その場、そのときから難を逃れる為に必要なことをしたほうがいいよね…、でもそれが、「命を大事にした行動」かというとわからないですね。
そのあと避難所での体育館での生活は命が大事にされた生活なんでしょうか。
生活環境が守られてない暮らしは命が大事にされてるんでしょうか。


病気が適切に理解されてることは命が大事にされてることに繋がりますか。
全ての病気が適切に理解されてますか。
命を大事にするというのは命が無事だったらいいんですか。
生きてさえいればそれでいいんですか。
生きてるだけでいいんですか。
慢性的な苦痛に襲われ続けることは命を大事にしてる証明なのですか。




心が大事 ってなに?
先ず、心はどこにあるのかを指したときに、心臓のあたりを指すことが多いけど、そこに心はあるんですか?
まぁ、どこでもいいけど(心臓にあるとは思ってないけど)、心を大事にする ってなに??
何を以って心を大事にしてると言うの??
心を大事にしたとして、その大事にした結果、どのような言葉に、行動に転化させているというの?
その心を真っ直ぐに表しているんでしょうか?
その心で何を感じているんですか?
心は何を役割とする器官ですか?
他人に心はありますか?
それは自らの勝手な投影ではないんですか?
ゾンビではないんですか?
虚勢ではないんですか?
心のこもった行動 というのは他者に向けて肯定的な行動ですか? 否定的な行動ですか?
心を込めて他者を罵倒し侮辱することもありますよね?
自身の心を守る為に一方的に攻撃することもありますよね。

その心の本意はどこにあるんですか?
別に心なんて開かなくても表面上で大きな声で威圧したやつが制してるんじゃないんですか?
精神的な感性を授受し、それを転化させている器官ですか。
どのように転化させているのかも、その心の矛先までも指し示すものなのでしょうか。



愛が大事 ってなに?
思い遣ることとか、好意とかあるけど、一方的な愛もありますよね?
好きな女性を一方的に後をつけるようなストーカーのような愛もありますよね。
追っている方は愛があるんですよ。一方的に。
でも、追われる方はそんなの愛じゃないんですよ。

愛だから一方的な感情であったとしても受け取れ などと言う “心” を学んだ女性がいましたがあれは愛だったんでしょうか??
どんな “心” を知ったんでしょうか。
愛はなんでも正しいんでしょうか?
愛だったらどんなものでも受け取らなければいけないんでしょうか。

愛 ってなんですか。
『好き』というものが愛だということとは限りませんよね。
愛の真ん中に “心” があるから『まごころ』がある とか言いますけど、
そもそも “心” なんてのもよくわからないのに、それが真ん中に据えられていたから崇高なものなんでしょうかね。

健やかなるときも病めるときも愛しますか?
別に病気のときに見捨てるような自己愛を示すこともありますよね。
その “愛” は誰に向けられた愛なんでしょうかね。

自分が他者へ示す愛に陶酔してるんですかね。
差し出してる愛は崇高なものだから他人が価値判断するものじゃない 絶対ゆるぎないものだから受け取れとばかりに、受け手にとっては歪んだ愛だとしても喰わされるものなんでしょうか。
誰の為の愛なんでしょうか。




その『愛』という言葉の解釈は、意味は、それぞれの認識として合ってる?
『命』も『心』も。


最近、言葉の誤用が増えた… っていうか、昔なら通じなかった言葉遣いも、通じるようになってしまった側面もあるので、各自の解釈に相違の無い言葉として受け取ってるものなのでしょうか。


その、安易に絶対崇高な言葉だと扱われてるものは、向けられた他者に対して届いているのでしょうか。

ま、自分の人生が全てで、自分のことでいっぱいいっぱいですし。
自己を優位に扱うことが最大の優先事項なのですから、他者に届いているかどうかなどと論ずるのはお門違いかもしれません。

命を大事に と言いながら、暴力で支配して 暴力を浴びせて「命を大事にしてみせろよwwww」と煽るのもさもありなん。
命を大事にする環境をジワジワと奪う社会もある。
生活環境を消極化させて、収入を減らし保険料を上げて、命を大事にしにくくさせてい乍ら、命を大事にしろ と言う。

先細りさせて奪って、あとは自己責任 と言ったり。


“心” も、“愛” も、思い遣る言動のつもりが、他者を抉っているのかもしれない。
でもそれは思い遣ったものだから仕方ない というのはそれを一方的に与えた側の理屈。
けど、それも所詮は個人の人生。知らぬ存ぜぬ。


どんな感情を受け取るか なんてのは自己責任。
受け取ったものからどんな言動を採るのかも自己責任。




他者からの想いが受け手にとっての本物だとするならそれを選ぶだけ。
本物であっても認めたくないときもある。選ばないときもある。



あまり大きな言葉を使わないで、その崇高で大事な、大切なものを、別の表現で伝えたらどうなるんだろう。
それは遺憾に思いますかね。
如何様に思いますかね。