藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“苛烈に批難した相手に、自分が成る可能性を、”

これは自戒で。
…という予防線でもあるのだけど、

自分が批判したい、批難したい、文句言いたい相手に、私がなっている。
なってしまう。

 

 

 

 

www3.nhk.or.jp

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(森さんの発言 リンク先より。)

 

 

極端な言い方だけど、
凶悪なものに反応する ということは、それが凶悪なものである と判別できる認識力がある。
(無邪気に無自覚に恐ろしいことをやってしまう人もいますが、それは割愛。)

人からされてイヤだったこと というのは自分が抵抗を感じていた部分で、それが取っ払われたら、されてイヤだったことを気にせずに自分が他人にしてしまっても咎めるものが自分からなくなってしまっているので、
されてイヤだったこと という自己認識が欠如してしまう。


私は前から書いてるけど、それこそ森達也さんの本を読んでから、オウム関連のやつを読んでから、
とても他人に迷惑をかけた人と そうじゃない人を分け隔てるものは何か

を考えてしまって、一方的に悪いことをした人を断罪してしまうのは如何なものか と思うもので。
勿論、主観的に「されてイヤなこと」というものに対して否定して良いんだけど、そこに主観ではなく、大きな主語を乗せたくなってしまうと話はまた別ですし。


誰の心にも人を差別する心が、勝手に人を私刑で裁く心があるのではないか と。
障害者の話だけではなく、
男女の話、年配と若者の話、地方の話、仕事の出来 / 不出来の話。


あいつクソだなー、マジでクソ過ぎる、死ねよ


って批難してた対象に自分がなり得る恐れがある。
  批難してた対象に自分がなり得る可能性がある。


徹底的に批難して / 批判している 相手のその性質は、決して自分の中に無いものだと断言できるのだろうか。

他人が自分の鏡だと仮定するのなら、見たくない自分の内面を相手が見せているとも考えられる。


けど、

何度も書いてるかもしれないけど、その部分が自分の中にあるかもしれないことと、それをわざわざ見せてくれる、実際に言動を起こして演じてくれる他人は別物。


その言動を現実に採択し顕現させた人と、可能性を秘めながらも選ばなかった人。


その違いを、自覚して在り続けていくことが “自分” を表明していけるのではと。