この誰も読んでないブログに毎日記事を綴るということは毎日遺書をしたためているようなもので。
もう私は死んでしまっているので。
なるべく洗いざらい 一方的な、敢えて 一方的な という表現で遠慮してしまうのですが、一方的な怨念と憎悪を書き記し続けているのです。
ふと思うのです。
先日も、特に、別段 何かイヤなことをされたワケではないのに、
『私の人生はいったい何だったんだろう』
なんて考えてしまったもので。
『 何 “ だ っ た ” 』のか。過去形で。
“私” はどこにもいない。
生産と消費が繰り返される中で、ただの流れの一部としてただあるだけ。
いてもいなくてもいい。
あってもなくてもいい。
自分の死を考える。心底やるせない気持ちになる。が、その死を「無意味化」する方法がたったひとつだけある。徹底的に無為に生きることだ。食って糞をして寝る。それをただひたすら繰り返すことができたなら、死んでいることと同義であり、死は意味を持たない。これが死の「ずる賢さ」の一面である。
— シマニテ (@Knitting_Wada) 2020年2月6日
人は誰もいないと、鼻はほじるし、おならはするし、あくびをすれば伸びもする、独り言も言えば鼻歌だって歌う。それが一人ということだ。そう考えると猫って奴はつくづく一匹なのだなあ、と思う。まわりに人がいても猫がいても、奴はつねに「一匹」だ。
— シマニテ (@Knitting_Wada) 2020年2月8日
自分が無人島に一人でも、世界に一人しかいなくてもその判断をするだろうか?と考えてみることは時に必要だ。それが周りの人の反応を伺っての判断かどうか分かる。もちろん、そんな状況は実際にはまず無い。ただ少し冷静に、客観的になるためのちょっとした練習みたいなものだと思う。
— ヤギの人(手洗い) (@yusai00) 2020年2月21日
心臓が動いていれば生きていると言えるのか?
言語が使えなくなって寝たきりになったとしても。
ただただ食物を消化して排泄を繰り返していたら生きていると言えるのか?
他人が誰かに生きることを望んでいても、死ぬことは誰に対しても願ってなどいなかったとしても、
当人はそれが果たして生きていることを誉れ高いと思えるのだろうか。
ただ、仮に、生きることに苦痛を感じ続けていて、「死にたい」と繰り返していても、第三者が「それが望みで、それが祝福と言うのなら死ねばいいよ」と願い、その通りに全うするのは大変に癪なことだ。
お前だよ、お前。
それはとても癪に障る。
お前、その自分の最悪さ、災厄さ、害悪さ、自覚しといた方がいいぞ。
私はそれを “切断” する。
私は自分の中にある相反するものを全て内包する。
日々、眠ることは毎日死ぬことでもあるとは以前も書いた。
明日また目が覚めて、同じ天井を見上げることが分かっている上で目を閉じる。
明日も生きていることが分かっている上で、
今日、必ず、死ぬ。
今の私は日々の屍の上に立っている。
いつ幼虫なのか、いつが成虫なのか分からない、先が見えないまま、毎日蛹を脱ぎ重ねる。
いつだって誰もが誰かの / 自分の 死骸の上に生きている。
毎日遺書を書く。毎日、一切を吐き出す。
毎日自分の意思で死ぬことが出来るのなら生き続けていけるだろうか。
明日も、自分の意思が生きているのなら。
毎日、自分の意思で、目を閉じて、また開けることが出来るのなら。
お前が勝手に私の「死にたい」にケチをつけるな。
黙ってろ。(と言うと また怒るのかもしれませんが。)
(まぁ、直接言うワケじゃあございませんし。)
別にここに全てを書くはずもないですし。
自分の中に溜まってるものを殺していく。
不要な自分を殺していく。
どこまでが “自分” だと決めているのかはそのときによりますが。
まだ死にきれてないのでしょうかね。
勿体ぶらずに、日々を憂いていくのです。
(よくわからない遺書になったな。)