藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“安楽死の不毛な是非、”

 

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生き乍らにして、「迷惑かけるヤツは死ね」とか考えたことがある人ならどう考えるか。
そして鉄道で飛び込み自殺する人に向けて「死ぬなら迷惑かけないように死ね」と言う人は何を思うか。

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弱者やマイノリティ、声を上げにくい人の存在に対して、そもそも普通に生活する保障は拡充されてるのか、その保障は広く認知されているのか。

 

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違う価値観同士が双方の基盤となってる価値観が何かを慮り、議論を深めることなく、自分の価値観を抱えたまま相手の事情を自分の価値観で判断するというのは視点があまりにも違う。
「死にたい」に対して、「それが幸せなら嬉しいことだ」と言う人もいるくらいだし。
そう思うに至った経緯を、「生きたい」はずが「死にたい」と思わずにはいられなくなってしまった流れを細分化して考えに寄り添うことも出来ずになにがカウンセラーだ てめぇ。
そして自己責任論で責める。

うまく生きれないのは自己責任だと切り捨てる。


どうしようもないことはある。
それは自分の責任主体では、本当にどうしようもないことが。

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記事中で触れられてる、NHKのドキュメントは私も見たやつで、過去にブログでも書いてる。
私はそれを見て、う~ん… って思ったほうだけど、この方はそれにどこか希望を見出してしまったのかもしれない。

ツイッターでこの亡くなった方のアカウントも見て、ブログも、

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当人の苦しみは当人にしかわからない。
それは当たり前。
他人の誰かが価値判断を下すことなんて出来ない。
……当たり前なんだけど、みょうにメンタルの強い人とか、たまたま不運に見舞われたことのない人は、弱ってしまった人の気持ちを慮る視点に立とうとすることも無い。

知らないから批判するばかりになってしまう。
なんであいつは出来ないんだ、なんであいつはこんなんでメンタルやられてるんだ、
「弱いヤツだなw」と。

そこに優生思想が関わってくるとまた厄介。

けど、優生思想などという言葉を使わずとも、人を優劣で判断して切り捨てたり侮蔑したことが全くない人はいるのだろうか。
あいつが出来ない、気に入らないと。

私は中学生の頃に体育ができなくて、チームを作る中で余った経験から、切り捨てられた感をずっと持ってる。
そのときの体感が、「使えないとダメなんだ」→「使い物にならない人は社会から弾かれるんだ」って残ってる。


それが、今の社会で、不自由になってしまったときに理解や保障がないと生きていけないことにも通じてくる。


障害については先天的か後天的かで、当人の認識も違ってくるし。



『死にたい私』と『使えなくて世話するしかないからどうしようもない重荷の他人』。
迷惑かけるくらいなら死ぬし、迷惑だから死んでほしいと思ってるだろうし、
そこで “利害” を一致させることで安楽死を助長させてしまってるとしたら、この責任はどこにあるんでしょうね。

自己責任 はどこにあるんでしょうかね。