藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“誰が何を以って其の人を『幸せ』と決めるか、”

www.news-postseven.com

b.hatena.ne.jp

 

 

(どうでもいいけど、元記事の『NEWSポストセブン』の記事周りのリンクとか広告とかマジでウザいな…)




連日、独りで生きること、所詮人は1人で死ぬんだ ってことを書いてますけど、
勿論私も、誰かと過ごすことは恐怖でしかないんですけど、
だから1人で快適に過ごせることは素晴らしいとも思いますけど、


だからってそれを他人から「1人で生きて、趣味に埋もれて死んだのなら幸福だったんだね」とは言われたくないですけどね。

勿論、私が死んだあとに周りの人が居たとして(それ自体が仮定の話ですが)その死に対して勝手なことを言うのは自由です。
ですが、勝手にそれを幸せだの不幸だのと決めつけられるのは私の主観としてはイヤです。

矛盾してるんでしょうけど。




そもそもとしての、幼少期から今に至るまでに、人間関係の集団からの価値観の圧力とか、決められた集団の中での声の大きい人に気圧されて抑え付けられてきた過去があったからこその、独りでの楽しさを 学習 したようなものなので、
楽しく生きる選択肢は抉られてしまったとも言えますし。
ま、元来より私がそういう気質で他人と馴染めない、馴染みにくい というのもありますし。


どのような不幸であったとしても、一般的な価値観においての『不幸』であったとしても、それを望んで暮らしているのなら『幸せ』でしょう? とか、
どれだけの不遇であったとしても、救われてる部分があるのならそれは不幸ではないですよ とかね。
……そんなことを不遇や粗暴で殴ってくる人が決めつけて無関心に悼んだりしてね。



ま、

『幸福』も『不幸』も人によって解釈が違うので根本的に “通じない” のかもしれませんが。
(それはどんな言葉であっても、どんな用途でどんな意味を込めて使ってるかは個人によって違いが過ぎるのですが。)



ツイートを引用したやつに書いてありましたけど、
私は1人で過ごすことの楽しさもこのブログでは書いてますけど、これまでの不遇も呪詛も書いてますので、現状なにも変わらないですね。





で、


私のこの記事冒頭に、『誰かと過ごすことは恐怖でしかない』と書いたのですが、
内心の気持ちの一つとしては、『誰かと楽しく過ごしたい』『過ごしたかったな』という希望も あ っ た んですけどね。
色々と不信を重ねてしまってこじれてしまいましたけど。

僅かな希みですよ。