藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“scapegoat.”

他人をぶちのめす というスッキリの仕方を覚えるとそれは習慣になるよ。

幼い子供がかんしゃくを起こして泣き叫び暴れるのと同じように、

暴言を吐いて黙らせること、

暴力を奮って黙らせること、

それは習慣になって、それを受けた人はしっかりと受け継いでしまう(おそれがある。(人による))


ていのいい問題解決だ。

自分の心がスッキリしたように感じるからね。
そのために誰かの心を蹂躙しよう。

別に “誰か” なんてどうでもいいのでしょう?
知らない “誰か” なんてどうでもいいのでしょう。

自分と大切な身内だけ守っていればいいのでしょう。

所詮大事なのは自分の人生でしょう?

誰かの人生を殺してでも。
誰かを犯人にすることで。
何かの所為にすることで。


自分の尊厳を、プライドを、権威を、肩書きを、ポジションを、アイデンティティを、
自分の生活を、
……それが守ることが出来れば誰を犠牲にしようとも構わないのでしょう?


どんなときでも自分が大事。
自分を第一に。
結構なことだ。間違いない。

何を犠牲にしてでも。


自ら泥をかぶって自己犠牲的に献身する人のことなんて気が知れない。
勝手に汚れている人なんでしょう?
誰かを救うとか ってのも自己満足なんでしょう(嘲笑)
それで自分が磨り減ってたら意味ないじゃん(嘲笑)

遠くからそうやって石を投げる。


自分の安心・安全が第一。
誰かが犠牲になろうとも。
誰かが 生きてるあいだ、永劫の苦しみを背負うことになろうとも。

そんなものに理解など差し向けずに、曖昧模糊な『理解しようとしている』意思だけ示しておいて、あとは自己責任だ と切り捨ててしまえばよいのでしょう。

「適切な関心を寄せていたのですが、改善には至らなかった」
なんて、しょうがない理由を並べておいておけばいい。

誰も言及しない。誰も追究しない。
誰も追究しない。
周りは面白がっていればいいだけだから、追究なんてしてもネタにならない。

満足できればそれでいいのでしょう。


満足するまで、気が晴れるまで かんしゃくを起こそう
なんとなくの原因を見つけて満足を重ねよう

誰かを犠牲にしてでも。
自分の生活に関わらなければ