全ては犠牲の上に成り立っているとは言うものの、自分がその犠牲では在りたくない。
それは屍と化すか否かではなく、誰かの敵意を向けられる “役割” という犠牲。
誰かを、何かを、男性を女性を高齢者を『敵』だと認識してしまえば、
拡大した主語で『敵』を定めて。
特定の “あいつ” を『敵』だと定めて。
そいつは殴っていいやつにしよう。
そいつはいくらでも罵倒していいやつにしよう。
『正しさ』はいくらでも容易に用意できる。
そいつを殴ってもいい理由はいくらでもでっち上げられる。
数多の屍の上に成り立つ繁栄。
数多のサンドバッグのお陰で成立する精神的な安寧。
それは、ひたすらに藁人形を編み続ける私も同じこと。
さて、特定の『敵』が共有できれば味方は容易に集まるのだろうか。
普通、『敵』をシェアできたら仲良くなり易いものの、
本当に同じ認識で『敵』を共有できてるかは知れない 知らない。
実は自分が、『敵』認定されていて、四面楚歌になっているかもと。