藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“アイアイ”

f:id:mooth1006u3:20200119230105j:plain

なんでもかんでも『愛』『愛』言う人 好きじゃないんですよねぇ。

動機が『愛』ならなんでも許されるんですか?? っていうね。

 

「あなたの為を想って」などと言って、受け取る側が迷惑でと押し付けてくる人もいれば、

わかりやすいところではストーカーなりDVなり一方的に偏愛をぶつけて傷つけたり。

 

『愛』って言葉が便利で万能過ぎるんですよ。

想いを向けることを『愛』だと呼称するのなら、それこそマザーテレサの言う、関心・無関心の話になってさ、

どれだけの攻撃的な言動であっても関心のある行為だから、それは愛だから と、正当化してしまいがちなもので。

 

そうなると憎悪や怨念だって 愛 ってことになるじゃないですか。
“それ” に心を奪われてあらゆる言動の源泉となってしまうのなら。


意見を擦り合わせたいからだと暴言・暴論を続けるというのは愛なのでしょうか。
思いの根源は仮に愛だったとしても、そこからの言動は愛のある言動なのでしょうか。

その言動を、表現を、
ぶつけたいのか、差し出したいのか、いつか届けばいいな とふわりと投げかけるのか。

他者の受け入れ体勢を慮ることなく、“愛” ならばなんでもぶつければいいのならDVと同じでは。

表現の選択を考えて、語彙を整えて。



ところで以前に、『爆笑問題のニッポンの教養』を見たときの ひきこもり回だったかで、斎藤環先生が、
『愛よりも親切』だと語っておられたことがあったような。


(いい記事見つけた。 ↓)

note.com

「愛は、相手の将来に責任を負ってしまうので、しばしば支配的-義務的になる。そうではなく、"別に義務づけられているわけではないが、相手のためにやってあげたほうがよさそうなことを見つけたので、自主的にやってみた"(=親切)、くらいの心意気で関われ」ということだと思う。

 (以上、引用。)

(記事中にある、島根県ひきこもり支援センターさんの画像も良いですね。)

f:id:mooth1006u3:20200119231747p:plain

(画像もリンク先から。)




動機の根源は “愛” かもしれない。
けど、そこから言動に起こしたとき、その “愛” だと捉えている思いは、どのようにして他者に伝えたいのだろうか。


“親切” か、“優しさ” か。

身近な人だと(一方的に身近だと感じている ということも含めて)、『きっと分かってくれる筈だ』と、表現も粗雑になりがちですからね。

逆に “愛” あっての、“優しさ” からなのか、遠慮し過ぎた表現になって届かないこともあるかもしれないし。
関係性や性格。それらを刻んだ上で、誰かに気持ちを届けられているだろうか。