なんでもかんでも『愛』『愛』言う人 好きじゃないんですよねぇ。
動機が『愛』ならなんでも許されるんですか?? っていうね。
「あなたの為を想って」などと言って、受け取る側が迷惑でと押し付けてくる人もいれば、
わかりやすいところではストーカーなりDVなり一方的に偏愛をぶつけて傷つけたり。
『愛』って言葉が便利で万能過ぎるんですよ。
想いを向けることを『愛』だと呼称するのなら、それこそマザーテレサの言う、関心・無関心の話になってさ、
どれだけの攻撃的な言動であっても関心のある行為だから、それは愛だから と、正当化してしまいがちなもので。
そうなると憎悪や怨念だって 愛 ってことになるじゃないですか。
“それ” に心を奪われてあらゆる言動の源泉となってしまうのなら。
意見を擦り合わせたいからだと暴言・暴論を続けるというのは愛なのでしょうか。
思いの根源は仮に愛だったとしても、そこからの言動は愛のある言動なのでしょうか。
その言動を、表現を、
ぶつけたいのか、差し出したいのか、いつか届けばいいな とふわりと投げかけるのか。
他者の受け入れ体勢を慮ることなく、“愛” ならばなんでもぶつければいいのならDVと同じでは。
表現の選択を考えて、語彙を整えて。
ところで以前に、『爆笑問題のニッポンの教養』を見たときの ひきこもり回だったかで、斎藤環先生が、
『愛よりも親切』だと語っておられたことがあったような。
(いい記事見つけた。 ↓)
「愛は、相手の将来に責任を負ってしまうので、しばしば支配的-義務的になる。そうではなく、"別に義務づけられているわけではないが、相手のためにやってあげたほうがよさそうなことを見つけたので、自主的にやってみた"(=親切)、くらいの心意気で関われ」ということだと思う。
(以上、引用。)
(記事中にある、島根県ひきこもり支援センターさんの画像も良いですね。)
(画像もリンク先から。)
動機の根源は “愛” かもしれない。
けど、そこから言動に起こしたとき、その “愛” だと捉えている思いは、どのようにして他者に伝えたいのだろうか。
“親切” か、“優しさ” か。
身近な人だと(一方的に身近だと感じている ということも含めて)、『きっと分かってくれる筈だ』と、表現も粗雑になりがちですからね。
逆に “愛” あっての、“優しさ” からなのか、遠慮し過ぎた表現になって届かないこともあるかもしれないし。
関係性や性格。それらを刻んだ上で、誰かに気持ちを届けられているだろうか。