(画像は HUNTER×HUNTER 27巻の表紙)
個人的に色々あったもので、
『心』というものに対する疑念がめちゃくちゃ強いです。
『心』という単語を用いて表現することに 違和感がめちゃくちゃあります。
前からも ずっっっっっっっっと言ってることですけど。
『心』って なに?
なに?
たとえば、
「あの人は心のない人だ」
と言うときは、無神経で無配慮である人のことを指すのだろう。
だとしたら、何かの人間の行動や発言から、優しさを感じるものがあれば『心のある人』だということだろうか。
明言化できないもの、表出されないもの、何を思い、何を感じているか、その感覚について。
おそらく 容易に言語化しにくいような部分に、『心』としての在る意味が、
人が、心を宿している その理由があるのだろうか。
しかし、人によって『心』の感じ方は違う。
捉え方も違う。
感じているものが仮に同じ…近しい感覚であったとしても、表出されたものが異なればそれで違和感が生じるだろうし。
その違和 “感” が、『心』に不快をもたらすものとなったり。
私にとってはとても不可解で、『心ない言動』を採っている人 だと 認識 している人であったとしても、その人には なんかしらの『心』が存在していて、私には到底理解できない感性を持ち合わせているのかもしれない。
かもしれない。
わからないけれど。
だからそれが、私がこのブログでたびたび言っている、
『どれだけ心に精通した人』であったとしても、無理解や粗暴や勝手な価値観の押し付け、それを元にした『反応』で、強い感情をぶつけてくるような人が、
…そんな人が『心』を持っている可能性もある ということなんだと思う。
うわべでキレイゴトばかり並べ立てている人が、
わざわざ強い感情を 表 に 出 し た い 人 が、
何故、キレイゴトや強い感情を無意識的に使いたい衝動に習慣づけられてしまっているのか。
……という部分に『心』はあると思う。
けど、それは当人は決して見つめることはしないでしょうが。
其処を突つかれると怒りたい気持ちになるのでしょうが。
とは
いえ、
『心』という言葉を用いることについての違和は全然拭えてないのです。
こんなエントリ1本書いたところで解決するワケなんかない。
昨今のご時世で、「命を大事に!」と標榜しながら、命を軽視するような言動を繰り返したり、生活が行き届かないような、真綿で首を絞めるような苦しみを与えてくださる施策をする方々であったり、
わざわざ大きな、主題として、『“それ” を大事にする!』と言っているということは、そもそも大事にしていない、大事にできていない ということと同義ではないのか??
…とも思うもので。
違和感はしばらく拭えないものだと思っております。
その違和感を持ったまま、私は実生活で『沈黙』を重ねて続けてまいり、色んな人の言動を見つめていきたい次第です。