昨今、不安ですよ。
連日のニュースのトップなんて毎日同じですよ。
どれだけ個人的に万全を期していても、その不安に感じているものには直面してしまう、
リスク管理というか、
色んなことに気付いてしまうがゆえに、状況から先々の展開をあらゆるパターン推定する為に、色んな不安のパターンを、色んな危機のパターンを考えるんですよ。
その、危機による衝撃の軽減の為に。
の、で、す、が、
不安に感じてるものがあるからって、それに対策する為に不安をしっかり感じて備えることで、実際に不安の出来事が起きてしまったときに、「備えておいて良かった!」という体験をしたいが為に、不安な出来事に実際になってもらっては困るんですよ。
ネガティブなのは予防の為で、行為としてはポジティブな判断だと、も、思うんですけど、
けど、
そんな安心感の為にわざわざ危機的な状況を引き寄せたくなんか無い。
それこそ、マスコミが不安を煽って、その不安に煽られて勝手に感化されるようなもので。
それは困る。
それは嫌だ。
で、
ここからが個人的な本題で、
私は『怒られたくない』という意識がとても強い。
『怒られる』とか『なんか否定的なこと言われる』という “危機” に怯えていて、そうならないように先回りして、“善人” で “善良” で “勤勉” であろうと努めている。
私はそんなにしっかりしていない。
しっかりしていたくない。
もっとずっとダラダラしていたい。
横になってくつろいで、“温室” で過ごしていたい。
ちゃんとしなきゃ なんていう意識が働くのは他人の目に脅えているからに過ぎないのよ。
なにか言われるのがイヤだから。
何も否定的なこと言われたくない。
批判されたくない。
………っていう意識が強いがゆえの、対策で自己防衛している ということは、いつか、めちゃくちゃ怒られる という “返し” が来るんですかね?
『怒られる』『怒鳴られる』という窮地に備えて常日頃から気を張っている、ということは、その『怒鳴られる』という窮地を引き寄せていることになるんですかね?
これは何の予防線になっているんだ??
不安な出来事が起きても大丈夫なように備えて、不安なことが起きても安堵出来るように、不安な出来事どんと来い ってのとは違うぞ。
それに怒ってくる人は、私が想定している外から、勝手な都合、勝手な理由でぶつけてくる。
全く分からない。
じゃあ備えるだけ無駄やん と、怒られないように行動することが無意味だ とも思えるけど、
怒ってくる人は自分の言動を棚に上げて怒ってきて、尚、それを指摘されようものなら返す刀だ。ご自身を省みるようなことをしない。
で、ご自身にとっての他人のイヤな言動が目に付いたら “攻撃” する。
ただ他人に感情をぶつけたいだけの人だ。
もう、意味が分からない。
忌避するより他ならない。
この “危機感” すらも、“危機” を呼び起こしてしまうとしたら、もう何も出来ない。
なんの対策も無い。
不干渉であることが全て。
一切関わりたくない。
あらゆるものに私は “気付いて” しまう。
それに対して回り込んで、どうにかしようとしてしまう。
他人は、反応を求める為か、反応を呼び起こしたいのか、擦り寄せたいのか、こちらの感情を想起させたいのか、仮に何も考えてなかったとしても、否、何も考えてないかもしれないがゆえに、一方的な都合をぶつけてくる。
一方的な感情をぶつけて来られることは 私にとって『危機』だ。
その『危機』が訪れるかもしれない “感じ” 、危機の感じ、恐れている 感じ。
恐れ は、未然の出来事で出来事足り得ていない。
起きていないこと。…ではあるけれど、過去の経験から類推される因果の為に備えてしまう。
備える というか、身構えてしまう。
体が、勝手に、恐れに反応してしまう。
その “危機感” が、“危機” を呼び起こさせて、やっぱりこう来たか、と、
怒られることに脅えて、怒られたことで「やっぱりな」と、その緊張を解くとしたらそれはあまりに疲弊が過ぎる。
それすらも私が招いた「自己責任」だと、それが心理的な仕組みだとでものたまうものが誰であれ存在するのなら、
私はそれに対して呪うぞ。
私にとって楽しくないもの、不快なものはなるべくスルーで。
受け取りがちだからこそ。
けどきっと備えてしまうこともある。
予防線を張って、『怒られないように』と。
それで尚、一方的に感情をぶつけてくるような人でもいたら、こちらも一方的に呪詛を与えてやろうぞ。
呪い(祝い)の言葉を吐き出すのだ。但し、相手にはぶつけずに。
『危機』は訪れない。訪れまい。
私を大切にする為に、緩やかに努めていこう。