救いを求めたはずが手を放されてしまったような。
ま、手を放した側なのは私なのかもしれないんですけど。
相変わらず翻弄されてるんですよ、人の声に。
そういった意味ではたぶん私は純粋… 悪い言い方をすれば単純なんですよ。
真っ直ぐ受け止めてしまう、特に悪い声を。
良い言葉は受け取りにくいのにね。
全然生きてる感じがしないもの。
とりあえず生きてるだけだもの。
楽しくないもの。
私のアイデンティティなんてズタズタですよ。ボロボロですよ。
あらゆる批判的な、否定的な声。攻撃的な声がツラい。ツラい。
大きな声や音が責め立てるように感じてしまう。
私が自分で悪いコトしたと思ってなくても、勝手に反応したのか感情をぶつけてこられる。
こわい。
つらい。
何も変わらない。
他人からの「わかってほしい」なんてもう要らない。
クソ喰らえだ。
色んな事情も背景もあるでしょう。それは当然こちらも出来うることは慮りたい次第。
けど、それを勝手にぶつけられたくはない。
勝手にサンドバッグになんてされたくない。
勝手に言葉で殴ってきた人が容認されてるような空間に居てはいけない。
こっちの痛みを知りもしないのに。
だけど被害者では居たくない。
私は被害者から降りたい。
降りる。
そんな他人とはもう関わりたくない。関わらない。
あまりにも批判的な言葉ばかり口にする人はいらない。
その人が共通の知り合いの人の悪口をわざわざ共感を求めて言ってくるのを聞くのもツラいわ。
けど、悪口を言ってるその人とは普通に親しく話すのでしょう?
どうせ私の悪口も言ってるんでしょう?
自分を大事に守りたいが為に攻撃的過ぎるような人なんていらない。
なんでもかんでもキレたらいいとか思って、駄々こねる子供か。
喚き散らして人を従わせ屈服させようとするなんて。
ただ、
私が今までそういう声を拾い過ぎていたが故に っていうのはあると思う。
無下に扱われることに慣れると、自分を無価値な人間だと思い込んだり、誰にも何にも期待しなくなるのでそれだけでもヤバイのですが、最終的にそういう人は自分を大切にしてくれる人と出会っても不安になって、"幸せから自分を守る党"を結成して、幸せをぶっ壊し始めるから無下な扱いに慣れたらオワリ
— 妹尾ユウカ (@yuka_seno) 2019年12月12日
にしても、責め立てるような声であっても、私は他人の言葉をちゃんと聞いてきたんだな って。
ある意味偉いよね。私。
そんなんになってまで…、しんどい気持ちになってまで、私は相手の思いを汲んであげてたんだな って。
きっと私のしんどい気持ちは、窮屈な気持ちは誰もわかってくれない。
わかってほしい …だなんて思えない。
だけど私が私をわかってあげるくらいには。
誰からの理解も共感も得られなくとも、
ただの音が声が、責め立てるように感じてしまったのならそれはそう感じた私の感覚を大事に扱う。
但し、その音を立てた、声を出した人を責めることなく。
誰かに私の主観的な感情をぶつけることなく、ただ吐き出すだけ で。
ただただ私が私の為だけに溜めがちな悪感情を吐き出す。
ぶつぶつと誰にも届けないように。
勘違いも誤解も齟齬もあるから。
勝手な伝聞で誤って意図せず伝わってしまうこともあるから。
私が浴びた、癒えない『許せない』はずっとある。
けど、「許せない」は言える。
この言葉に距離を置く為に。『許せない』に距離を置く為に。
この言葉が届かないところまで。『許せない』が届かないところまで。
『許せない』を言う(結う)必要の無いところまで、
批判的な声を受け付けないところまで、私が在れたら。