藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“思慮のグラデーション”

決めつけたい人は決めつけたい。

 

知識をつけたいと思っても つかない人はつかない。

 

多角的な視点や バックボーンなど 数多に散らばる 個 の情報を それぞれが絡み合って繋がっている ということに気付ける人は気付くけど気付かない人は気付かない。

 

 

気 付 け な い 。
わからない のではなく、わ か れ な い 
どうしようもなく理解できない。

 

 

自己の視点を他へ向け乍らも、その差したものは自らへも向けている。
けど 見えてない人には見えてない。



自分で他者を慮ったつもりがなくても、慮ったと思われたり、
あらゆる配慮を事前に散らして準備しておいたとしても、それが余計であったり反感を買ったり、好感を持たれないこともある。



ここまでの情報を出したら、ここまでは受け取ってくれるかな?
ってときに、受け取る量も人によって異なる。
同じように10の情報を表出しても、8受け取る人もいれば 2しか受け取らない人もいるし、10が#$&になったり、1000受け取る人もいたり。


前後の状況や文脈を読める人もいれば読めない人もいるし、
日本語が正しい言葉を使っていても国語辞典的には誤用で使用 / 理解してる人もいたり。



信じてることしか信じないし、信じたいものしか信じないし。







ま、そりゃあ私なんて人間不信ですからw
自分で掴んだ情報しか信じませんものw 疑ってかかりますものw
先ずは否定してワンクッション入れて判断しますものw

疑ってしまうがゆえに考え過ぎてるだけなんでしょうよ。



もっとシンプルに受け取りたいもの受け取って反応すればいい …という考えもあるけど、
その反応 / 脊髄反射的に即レスポンスする感情と表出は、蓄積された価値観の思考の結果なので思慮が及ばずに至ることもある。



けど、(ループしてますが)その思慮は受け取り方次第でもある。
勿論、提供次第でもある。


結局正解は無いのに、自他の異なる正解に苛立ったり。






“私”  からは、柔軟を選ぶのはこちらの主体ですので。多層解釈の可能性を踏まえて受け取るより他ならない…

……のかもしれませんが。