藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“d.a.r.k. 誤[-five-]”

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mooth1006u3.hatenablog.com

 

 

コミュニケーションって誤解ばっかりですよね。

私が他人に対して誤解してるのもあるし、他人が私に対して誤解してるのもあるし。

私が私に対して誤解してるのもあるのでしょうけど 気付かないし。

 

 

こういう言語間のやりとりなんて尚更ですよ。

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言葉は誤解をもたらすものである。ってね。

 

 

たとえば『平謝り』って言葉を使うときに、軽い意味で謝ること・テキトーに謝ること って意味で使ってる人もいるけど、本当はこの言葉の意味は “ひたすら謝ること” で、“土下座をすること” から来ている言葉だけど。

(というか私が間違って覚えてたので気付かされた。)

kakuyomu.jp

 

でも間違ってるほうが話が通じるときとかあるんでしょうかね。

正しい意味で使ってたら、話が通じないで誤解することもあるのでしょうね。 

 

 

 

込めた意図と異なる受け取られ方をしてしまうことなんてきっとあり続けるだろうね。

感じた感情が、湧いた感情が全て正しいかといって、そのまま(自他を問わず)責めていいかというものでも無いのだけどね。ましてそれが癖になってる人は。

(私はよく自分責めするけどな。)

(つかそれは “感情” なのか “反応” なのか って話だけど。)

 

一つの事象から感じることなんて人によって千差万別だし、同じ人であってもその受け取る人の気分によって全然違うこともあるからね。

 

言う言葉が同じでも、言う人によっては絶対に否定から入ることもあるし。

言われる言葉がどれだけ素晴らしくても、受け取る人が否定的に取ってしまうこともあるし。

どれだけ丁寧な言葉を紡いでも、立ち位置で意味を取り違えられることもあるし。

 

 

きっと何事であっても誤解し続けるだろうし、誤解され続けるだろうな。

誤解され続けたとしても振り切って自分を貫けるか、

誤解され続けたとしても自分を信じてくれるであろう人のことを信じることが出来るか、

 

尽きない誤解に時間を割くことよりも、自分が自分を “理解” 出来るかどうか。