(固有名詞を書かなくても分かる文面)
20周年のお祭り的なやつだったんですよね。この間まで。
それまで関わってこれなかった人も10何年ぶりかにステージに立ったりしてね。
私は現場には行ってないけど、在宅でレポ読みながら楽しかったんだろうなー とか思うワケですよ。
ところが、ですよ。完全に水を差したことになってしまってね。
バカだなー。何やってんだよホント。って。
20周年本を読んでたので、ふとそれで思い出したのが、
「同期に問題児がいたからこそ、私がしっかり者に見えていたのかもしれないけど、私も結構やらかしてますよ」
といった主旨の文面を思い出して。
その部分が出てしまったのかなー とかね。
まぁ誰しも完璧な人はいない っつっても、やらかしてしまったこと自体はね。
ただ、人としては否定したくないんですよ。私は。
行為は批判するけど。
それは私の視点が、そのお祭りを陰ながら楽しんでた側で。メディアごしとはいえ支持してきた人だったワケですよ。
だから立ち直ってほしいな と思うんですよ。
私は。
ただ、被害者側に立てばそうではないのだけど、
言うても、『被害者の当事者』と、『被害者側の視点に立つ人』はまた違うんだけど。
今回はまだ大事に至ってないのでね。
その被害者の人がちょっと浮ついたことを言ったらしいんだけど、別にそれは自由なことで。そら物理的な損害もあったから それを言うのは自由なんだけど。
なんかその浮ついた言葉が気に入らなかった人から叩かれたとか。
起きた出来事の 非当事者が出てくる… なんか一言物申したいってのはどういうことなのかな とか、非当事者が起きたことに完全に俯瞰視点でニュートラルに捉えられることは出来るのかな? と。
自分があらゆる被害も受けておらず、加害もしてない状態、一切関与してない状態で、なにか諍いがあったときに、その第一印象というか 最初に感じる感覚として、どっちにも肩入れせずに “反応” できるのかな って。
自然と感じた “反応” だとしても、その “自然” が積み重ねられた自分の価値観に依ってしまってるから、確実に偏りがあるんよね。
たぶん、完全にニュートラルって無理じゃない?
結局 主観が入るものでさ。特に自分の中で “反応” したものの感情の動きが大きいほど。
で、そこでなんで “反応” したか ってとこまで考えてみるのもいいんですけど、
ここではそこまで考えずに。
常識を使ったり、相手立場を勝手に推測したりせずに、
「私が、こう感じた」
という、ただそれだけを先ずはしっかり感じて言ってみる ってのが、私を示す 最初になるのかな って思う。
だから今回のことは個人的には残念だな って思うけど、折角普段見れない人も出たんだから 批難を受けようとも回替わりを全部収録して、パッケージ化してほしいな って私は思いました。