なにか過ちを犯したときに、“被害者” がいることだから 表舞台で活躍してはならない ということを求めてしまうものなのかな。
私さ、
「一回過ちを犯した人が 二度と復帰することを許さない」
みたいのは嫌いなのよ。
(ま、あまりにもサイコな人は個人的に無理ですけど。)
勿論、被害者となった人がいたのなら、被害者当人にとっては容易に許せるものではないのだけど。
けど、今までその人が携わってこられたことによって 楽しませてもらった / 助けられたことが諸々あったワケで。
だったらまた 持ってる技術や才能を発揮してもらうワケにいかないんだろうか と。
それまで社会保障みたいなものを多くの市民の為に尽力されてきたワケでもあるみたいだし。やっていたことがたまたまタガが外れてしまったんでしょう。
「被害者がいるんだから」
「被害者の気持ちを考えると」
どこまで被害者の気持ちをメディアごしの他人が分かってあげられるのかな。
で、
私は無自覚に人を不快にさせたこともあったし、無自覚に人によって攻撃を受けたこともあるのよ。
全然法に触れることじゃあ無いけどね。
私としてはその人を傷つけるつもりなんて毛頭なかったし。でも その人にとっては、「私(相手)を傷つけたのに 平然と楽しく生きてるアンタ(私)を許せない」
って思ってたみたいだし。
その一方で 攻撃を受けたときに 私は不快をこうむった。被害者だと感じたときに 私の気持ちを分かって守ってくれるような人はそんなにいなかったと感じたのよ。(少しはいたけど)
で、私は攻撃を受けたことを許して 無視して自分を楽しく生きたい気持ちと、許せない気持ちが残ってるんよ。
で、同じように、私は無自覚ながらも不快を与えてしまったみたいだから、同じように相手も遺恨が深いのかもしれない。
これは結局 当人しか分からない。
当人の悲しみみたいなものは 容易に癒えるものでもないかもしれない。
当人にとっては。
で、
外野がメディアごしに / 当人ではないのに被害者のある出来事 に乗っかるときは、過去に近い体験を受けてしまったことによる 投影だというのと、
正義側に乗っかりたいから ってのがある。
というのだと思うけど。
投影して 被害者感情に乗っかった場合、本当に訴えたい 個人的な思い ってなんなんだろうな。
憂き目に遭った 過去の自分を ずっと悔いてしまってるのかな。と。
私自身も 何度か書いてるけど怨念が深いのでね。過去された不快な出来事はずっと覚えているから。
当事者の私は ね。
ま、
個人同士の遺恨であっても 立場的に大きなものに晒されてる人は 影響力が違うから ってのもあるでしょうけど、だからこそ、個人としては間接的な出来事をどういった気持ちで受け取って し ま う んだろうな。
個人がどう “反応” し て し ま う か ってのは分からないのよね。
その個人の為に 不快の一切を排斥してしまうのは どうなんだろうな というね。
「一人でも不快に思う表現はやめた方がいい」という表現が私にとっては不快だったので、その信念に基づいて二度と口にしないでほしい。
— 倉須七瀬 (@kraz7se) January 31, 2019
誰をも不快にさせない / 誰にも迷惑かけない なんて無理なんだよなー。
あと、「過ちを犯した人の復帰を許さない」としてしまうと、自分自身が 故意にせよ 意図的ではないにせよ 過ちをしてしまった場合に また同じところに復帰することを難しくさせてしまうと思うんよね。
そんなに清廉潔白に生きていけるんですかね。そんなに白日の下に晒せられる程 過去に至らぬ点が全く無いと 言い切れるのかな。
どの罪を数えたいのかな。
誰が罰を与えたいのか。
罰が下ってほしいのか。
ほとぼりが冷めるまで、喉元過ぎてもらって熱さを忘れる頃まで。
距離を置くのは、個人の選択。