藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“駄文 35。『死ねばいいのに。』という言葉。”

『死ねばいいのに。』

あぁ、非常に扱いに困る。えぇリアルに困る。この言葉。
大丈夫かなこのエントリ、長くなるかな。書くの時間かかるかな。(←


暗殺教室』の感想エントリでも少し触れましたし、何度か書いてるかもしれませんけどね。

みんな誰彼、『死ね』など『殺す』など言ってる・思ってるワケです。
だからその人の脳内では対象者をフルボッコです。

私も最近 職場でキレてるので、「クソ上司○ね!」(敢えて伏せた) とか言ったり思ったりしてるワケですよ。

相当の聖人君子でも無い限り、おそらくどこぞの金持ちも貧乏人も言いますよ。これは言わない人は…慎む人は相当の人格者か徳が高いか そんな方だと思いますよ。


で、
ね、
前提。
殺人と自殺は同じだと思うの。
これ分かるよね?

私、これまで書いてきたものの中ではこれが等しいことは何度か書いてきてると思うんだけど。
他人を殺すことは自分をも殺してるの。
そもそも自分(=私)というのは他人との関係性の中に生まれるものだから、そこにある“私(=自分)”は、その他人を嫌いな“私”しかいない。

上司が嫌いだから○ね! じゃない。上司が嫌いな私が嫌いだから○ね! でもある。
ほんとうに嫌いなら関心を持たなければいいだけで。それでも関心を・関わり続けなければならないのなら嫌い続けることで殺し続ける自分の心に覚悟を持たなければならないワケで。
…ここでホントならね、「じゃあ関わらなければいいじゃないか」って言いたいところだけど、そうもいかないのよ、と言われるのがオチだからね。

(あぁ、自戒がハンパない…。。。(苦笑))

親が嫌い、
友達が嫌い、
隣近所が嫌い、
職場のヤツが嫌い、
…な、自分が嫌い。

だから死ね!

というのがね、自分にも矛先を向ける覚悟がいるんですよ。
これをこじらせると私みたいなメンタリティの出来上がりでもあるんですが。(自虐)
(ダメな例ですよ。)

結局ねぇ、死にたい(嫌い)っていうのも双方向ですから。

前も書いたけど、『殺す』って言うよりか、『死ね』っていうのは他動的ですから。
“私が手を煩わせることなく、その命が潰(つい)えてくれませんかねぇ。(ニッコリ”
っていう。
『消えてくれ』と同意で。
で、
自殺願望者にありがちな思考の中にある、
『消えたい』
っていうのと全く同じ文脈ですから。

“別に死ぬつもりは無いけれど、うっかり自分が死ぬことが出来たら有り難いなぁ。”
っていうね。

だって相手が消えてくれれば私が嫌いな“ソイツが嫌いな私”も消えるし。
私が消えれば、当然“ソイツが嫌いな私”も消えるし。


誰かを何度も、発言や想像の中を問わず殺し続けていながら、自分だけがのうのうと生きてい続けるだなんてムシが良すぎる。
だから覚悟が足りない。

そうでなければ発言の域からも『殺すな』。

(当然、どんな覚悟背負ってようとも、実際に人を容易に殺すな っていうね。当然な。)

そうでなければ『関心を持つな』『関心を持たないような環境に移れ』というフツーには行動に移し難いコトになるワケなので。


関わることで『嫌い』→『死ね』ってなるのなら、こちらも相手にとっての“人間”である必要は無い。
所詮、あなたは『“都合”という存在』であることを自覚するのだから。










うーん、中途半端だったかな。またいつか改訂して書くかな。
まぁ、私はこじらせ過ぎてるので、『死ね』と言われたら「はい喜んでー☆」と居酒屋ばりのリアクションを取ってちゃんと自殺幇助(“幇助”は違うや、“教唆”)の証明してしっかり死んでやりますけどね☆(笑)(←前も書いたか…)
死ぬつもりならその覚悟を持って巻き込む。
殺すつもりならその十字架を背負って。