藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“個性と無力。”

私は私自身のことを個性のある人だとは思ってないんですね。
(出だしからこれか…。(苦笑))


そこらへんにいるような一般的な非リア充で、そこらへんにいるようなDQNどもにビクビクしてるような。
出すぎた杭にならないように、打たれないように過ごし。
愛想笑いでやり過ごして、嫌われないように人の機嫌を伺って生きてるような、ただの精神的下層な人でございます。

だからとにかくフツーに。フツーに努めてるのです。

個性なんて求めてしまうとしんどいのです。憧れはするけど、陽の目を浴びる舞台に立って、集中砲火を受けるような覚悟もメンタリティもありませんので。
だから沈黙する。沈黙していたほうが都合がいいから。

“個性”のある方々からの賛同を求められて、相手に都合の良いように意見を返し。
攻撃的な文言に「そうですよねぇー。(^^)」と ただひたすら受容する。

「言いたいようにアンタも返せば? 意見を述べれば?」と言われても、それをあなたは遮る。

その『意見』を『意思』を 無 か っ た こ と に す る 。


誰かにとっての不必要な“個性”は、実に“無力”。
暖簾に腕押し。ぬかに釘。


その個性は必要ない。

欲しいのは量産型労働力。
利益を生む個性。

や、まぁ、当然ですよ。
誰だって、自分に都合のいいものが欲しいんだもの。それは私も否定できないもの。
そりゃあ都合のいい個性を持った人が欲しいものよねぇ。


勝手な言動をするヤツをジコチューだと批難するけど、そう批難する人自身も自己中な判断で批難している。けど、批難してる人はジコチューの自己中の中にいて気付かない。

それはある意味で、自己肯定力が強いゆえになのか自己愛が強いゆえになのか、排他的な考えになったりね。

そうして個性を貶め合う。

なにかの違いを『個性的なことですね』と突き放すことで、誰かの“個性”を 認 め な が ら も“容認”しない。とかね。


そう、あとは個性がビジネスになる場合とかね。
過去エントリにも書いたかもだけど、特質な能力を持った人は評価されればそれ相応の対価(収入)を得ることとかね。
評価されれば、ね。

そんでそれが…お金を持ってる人がすごい人だとか言われたりね。それが自己愛やら自尊心やらを満たしたりね。
好循環を起こすよね。


で、
その循環に嵌れない人はただの必要無い人・どーでもいー人なのか。

上層の人を循環させるためのただの都合のいい手ごまに過ぎないのか。薄給のニンジンをぶら下げ続けられ。

“上”の循環は、たいへん自己肯定が強いために、たとえ仮に間違っていたとしてもその循環を満たすためのコトしか考えない。


あぁ、なんか僻みになってるな。
別に底辺な私でもですね、自己肯定できる生き方でもできてれば良いのですが、それが無い

この前も書いたけど、これまでの私は色々否定されまくってきて、誰かの『(都合の)(どーでも)いい人』に一所懸命なんですよねぇ。



ところで少し前に、私の友人が私の個性を肯定的に評してくれたことがあったんですが、私自身に自己肯定力が無いので、全く、私の中で自分の個性を肯定的に捉えることが出来ないんですね。
で、ある第三者の人に『個性が無い』(←発言者の正しい文脈は忘れたけど、私の脳内変換で そう意訳した。)と言われたので、「あぁ、やっぱな…」と思うのです。
私の中での否定する“私の個”というものへの考え方が・認識が…、自己否定すること自体がアイデンティティになってしまってね……自己否定すること自体が、自分を肯定する材料になってしまってる。っていう。
(あぁ、やっぱこれ、自己愛と自己嫌悪の話だな。)




うーん、なんていうか、なにをこれはネチネチ書いてるんだろう。

単に自分の今の生き方が気に入らない、っていうのが大きく一因していて。
だから誰かと比べることでの嫉妬とか、強いものへの憧れと嫌悪とか。…私があまり自己主張しない・出来ないようなタイプだからそれに対しての嫉妬や憧れとかがあるんですよ。あと、嫌われる覚悟とかが無いんですよ。たぶん。
嫉妬というのは個性…独創性によって特別な収入を得ている人への嫉妬とか、
あとは、特別な収入を得ずとも個性に没入できるような…周りに振り回されないように出来る人とかへの。ね。

結局、他人と比べてるのが一番大きな悪因なのかな。
んー、でも比べなかったとしても現状の生活の仕方では…社会への貢献に対するお金…対価としての収入では今後厳しいし…。

この“無力”というのも、一般的な価値基準による、“力”の衝突に干渉しないような中で生きていけるものだとしたら、それはある意味 生きていくスキルになるのかもしれない。(“力”は、権力とか、経済力とか、暴力とか。)けど社会が“力”の相互干渉により生きる条件や、経済(というか上記に示したような利潤を生むもの)を敷いてるとしたら、そこではきっと私は生きていけないでしょう。

自分の揺るぎない個性(元来の気質と、環境・経験値から培われたもの)と、社会との自分が最適化するポイントをただ探るしか無い…ということかなぁ…。
ひたすら探るしか。



(このエントリを書いたあとで客観的に個人的に思ったけど、この文の冒頭から後半に至るまでにコペルニクス的転回をした印象。“無力”というものがポジティブ(寄り)なものに結論づく流れになるとは思わなかったですね。)