藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“『学習性無力感』と、これまでと。”

最近、『学習性無力感』という言葉を知った。
キッカケはこちら↓

[外部リンク] : 『男の影ないアラサー娘に父親 「箱入り娘として大切に育てすぎた。女の歓び知らず申し訳ない」』(ライフハックちゃんねる弐式)

スレタイ自体に基づく本スレの内容よりも、『>>28』の『学習された無力感』に対しての記述が気になった。

(以下、コピペ)

学習された無力感というのがある

『犬を縛り付けておいて、電気ショックを与え続ける。
最初のうち、犬は必死で もがくが縛られている為に電気ショックから逃れる事が出来ない。
これを数週間続けるうちに犬は「自分は無能で何をやってもムダだ」という感覚が植え付けられ、
そのうち 電気ショックを受けてももがかなくなり、ひたすら衝撃をガマンするだけになった』
これを心理学では「学習された無力感」と言う。

『極度の無気力状態に陥った事が確認された後、セリグマンは犬の縄をほどいて
逃げられるようにしてやったが、それでも犬は黙って電気ショックを与えられるがままで
逃げだそうとはしなかった。努力をムダだと信じ込んでしまった為、
「逃げる」という選択肢を失ってしまった。

そしてセリグマンは犬を抱き上げたり押したりして、電気ショックを受けない所まで動かしてやり、
「逃げれば助かる」という事を再度 学習させた後、再び元の場所に戻し電気ショックを与えた。
犬は逃げれば痛くないと 判ったはずなのにやはり動こうとはしなかった。
一度無気力状態になった犬はさっき 痛くなかったのは誰かが助けてくれたせいで、
自分では何も出来ないと信じていたのだ』

これは人でも同じ。
「あれをしてはいけないこれをしてはいけない」と言われ続けた人間は消極的な性格になる。
親とは実に無責任な存在である。

(以上、コピペ)

(これって学校において いじめを受けているときに、担任の先生に言っても、校長に言っても、教育委員会に言っても、警察に言っても ダメだってとき。逃げるすべを求めてるのに逃げられなかったときに、生きて逃げることも選べずに死を求めることとは意味が違うんでしょうかね。)

(まぁ……さておきますけど…。)

この『学習性無力感』、私の中にもすごくあるんですよねぇ。

この前の絵を描くのが好きかわからなくなった話とかもそうだけどね。

自己肯定力が無い・成功体験が無い、…から。
賽の河原で石を積み上げても幾度も崩されるように。

好きなことなら努力も努力と感じない、苦痛とは思わないのかもしれないけど、好きなことがわからない。
習慣として何かを積み上げることが出来ればいいのかもしれないけど、ただの怠惰なものにもなりかねない。
惰性で物事を進めてるのではないかと思ってしまう。

『学習性無力感』でググったらこういうのも見た。↓

[外部リンク] : 『学習性無力感から逃れられない人』(はてブ)

別に私、家に対しての文句はこれっぽっちも無いんです。ただ、それ以外の環境で色々歪んでしまったのでね。

(以下、共感する部分を上記リンク先からコピペ)

普段は社会人として真面目に働いているが、出世願望などは持たない。
周囲とコミュニケーションを図り、協調して仕事を進められる「いい人」。

業務上の任務を果し、効率化による業績の向上には尽力するが、
自分の私生活の充実や幸福な未来には無関心でいる。

「他人に迷惑をかけないように」貯蓄はしているが、
「自分の幸せな未来のために」は何も培っていない。

義務を果すことのみが自分の使命であり、
その苦役から解放される死の時のみを心待ちにしている。

(以上コピペ)

『いい人』ゆえに、私の場合多くの知人はいるほうだと思うけど、別段友人はいないし。
『他人の世話になる重圧〜…』のくだりに関しては、「迷惑掛け合うのが人間関係でしょ?」って言ったことろで、迷惑をかけられるのは御免被るからイヤという。…それは私にもあることだけど。
物欲に関しては あるけど、それ自体が惰性なのではないか とも疑ってるし。

期待や信頼に関しては“裏切り”や、“勝手な期待ハズレ(という思い込みだとしても)”による落胆の喪失的感情(?)から逃れたいのかもしれないけど。

特に誰かに意見しない、期待しない、というのは、 私が言ってること・思ってる意見を伝えたところで、聞いてくれなかったり、どうにもならなかったりするようなことを さんざん経験してるから、つい意見を呑みこむようになってしまったりとかね。

(上にチラッと書いたけど、「助けてくれ」と何度も言ってもどうにもならないコトだったりとか。)

だから強いものへの(語気の強いものとか)嫌悪や萎縮があったり。


同記事に トラバでレスコメントがあったけど、
リア充洗脳とかあるのかもしれないけど・リア充を羨ましいとも思うけど、確かに、別にそうはなりたいワケでも無い。それは思う。
「あーいうのになりたい」
と思う一方で、
「あぁ は、なりたくない」
とも思ったり。

ただね。人から虐げられる感情をいつまでも背負ってたり(それが勝手な被害妄想的感情であっても)、生きることがただ労働で済まされていく…ただの社会の歯車として……トラバコメントの言葉を引用すれば、う○こ製造と納税だけが仕事じゃない。……生産と消費の中で生存競争をしていって、見下して優越感を感じたり、すごいのを見て劣等感を感じたり、また すごいヤツの悪評をわざわざ見つけて引きずり下ろそうとしたり。そういうのをいつまでも抱え続けてるのは結構な窮屈ですよ。

[ブログ内リンク] : “レースゲーム。”

(つか、被害妄想的感情 って書きましたけど、過去エントリに書きましたように、誰しもが死への恐れからの言動が土台になってるのだからそんなのは誰もが同じ。)

[ブログ内リンク] : “【100分de名著】パスカル・パンセ 第3回”


もうね、私はうんッざりなのです。
あれこれ言う人の意見とか、それを何処か鵜呑みにしてしまって心がズキズキ左右されるような自分にもね。

過去エントリにアイデンティティを解体する。と書いたような気がしますけど、それも含めて、
そのブクマコメントに『思考をニュートラルに戻す』とありましたけど、それがしたい。

これまでの生きてきた数十年間で、すべての物事に対しての意味や解釈というものが根付いてしまってる。
誰かのスピリチュアル的なところからの言葉だったかもしれないけど、『“事実”は“事実”にしかすぎない。』っていう言葉。『全ての“事実”に対して意味づけしているのは自分自身。』という。
すべて観測者の解釈によって、事実は解釈を通されるから、解釈次第によっては自分に窮屈な・不都合な解釈もあったりする。けど解釈自体を疑おうとはなかなか出来ない。

事実の解釈の仕方をするのに、自分主観の…これまでの生きてきた中で生成されてきた価値観に基づいた、事実の解釈の仕方をしてるから、事実や、情報や、さまざまな事柄・言動すべてが最初っから意味を持ったものとして存在しているように勘違いしてしまう。
最初から、その事柄にはそんな意味などなかったのに。


けど、事実を制限され、意味を制限され、なにをしても無駄だと思ったり、何かしてもどうにもならなくて虚無感を感じたり。虚無感や無為さがネガティブな意味を持つ(という勘違い)からそこから死への思考がとめどなかったり。
発言を・行動を阻まれることは不健康になる。

……のに、阻まれたまま、立ち塞がったまま、そこからなかなか動けない。

その、コメントにありましたけど、
『キ○ガイからの完全な分離』とか、
『充実している人との交流』とかありましたけど、そうね。

あまりにも触れる人が多岐に渡り過ぎてる環境なので、そのへん精査したいですよ。
何が正常か異常かとか問うとメンドクサイのですが、何かが理屈では表現できないほど感覚に違和感があるのならそこは離れるなり客観視するのがベターだと思うのでね。


なによりね、元記事のライフハックちゃんねるのまとめスレの、>>828とか米欄の>>1とかにもあったけど、若い頃出来なかったとしても、気付いた今から、それをしていくことは全然遅くない。と。


近いようなことが、ほぼ日の『おとなの小論文教室』にあったんだけど、

[外部リンク] : 『おとなの小論文教室“Lesson597・くだらないことこそ、ちゃんとやれ。−2.最大の敵”』

(以下、引用)

「自己表現」というのは、実は、
人に話せば笑われそうな、ささいなこだわりの、
実行の積み重ねではないか?

と私は思う。

というのも、文章教育において、
もうすっかりいい大人になった人の、
自己表現がうまくいかない原因が、

こどものころや思春期に、
果たされなかった、ちょっとしたこと、

だったりするからだ。それらは、文章に書ききってみて、本人さえも、
とるに足りない、ささいなことだったとわかる。

しかし、ささいだからこそ、とりたてて正面対決もせず、
小骨のように、表現の喉もとあたりに、つっかえて、
その後の自己表現をさまたげていたと気づく。

でもそういう人も、
書ききって、想いが成仏すると、
いちように、自分と自分の通じがよくなり、
らしさのある表現へと踏み出していっている。

(以上、引用)

元記事より、一部を勝手に色変えましたけど、そこが一番引っかかったところなので。


ここで、前日のエントリに繋がってくるわけですよ。
確かに私は、そこらへんいいるリア充の人みたいにうまく世渡りできないし、特別な技術も知識も無いんだけど、だからといって、経験したことも無いことを拒絶するのはおかしな話で。

完璧主義についてエントリ書いたこともありましたけど、結局、求める水準が高いんですよ。
自分にも厳しいし、他人にも厳しいんですよ。

自己認識の水準を…私が私に求めるものをレベルを落として、自己肯定→自己表現していければ(それが上記の『くだらないことこそ、ちゃんとやろう』に繋がると思うけど。)、ちょっとずつその“無力”からのニヒリスティックなものが緩和(?)というか、解放されていくのかな。

私が投じた一石が、バタフライエフェクトになるかもしれない。というような。

ちょっとずつ、そうしていきたいと、そう思う。

[外部リンク・“学習性無力感”参考リンク] : 『やる気が出ない人の心理学 レバレッジメモ』(西尾泰和のはてなダイアリー)