藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“全ての“有”は“無”に、“無”は“有”に。全ては唯一無二。”

“全ての“有”は“無”に、“無”は“有”に。全ては唯一無二。”

もともとはACIDMANの楽曲、『FREAK OUT』の歌詞に、
“YESか NOか 有か無か”
“YESは NOに 有は無に”
というフレーズがあることが気になってたこと。

そして過去に『神との対話』(ニール・ドナルド・ウォルシュ 著、吉田 利子 訳)を読んだ時に、
“有と無は相容れない”というのが書かれてあったような気がします。
(うろ覚え。結構前に読んだため。さっき本を奥からひっぱってきてざーって見たけど分からなかったですが。)

で、昨日取り上げた『それでも人生にイエスと言う』に記されてた言葉。
“「無」か「神」かという選択について(中略)神はすべてにしてかつ無であるからです。「すべて」を凝固させ概念にしてとらえると、溶けて「無」になってしまいます。それに対して、「無」は正しく理解しさえすれば、結局それは捉えられないもの、ことばでいい表せないものであり、そういうものとして私たちにすべてを語るのです。”
と、
“この世界の出来事全体に意味があるとは考えられないでしょうか。(中略)すべては結局まったく無意味だとも十分主張できます。おなじように、すべてに大きな意味があるばかりか、そのような全体の意味、そのような意味の全体がもはや捉えきれないほど、「世界は超意味をもつ」(世界は意味を超えている)としかいえないほど意味があるのだとも主張できるでしょう。”(P.112)


“有”は“無”に、“無”は“有”に。
意味を意味付けているのは“私”という主観にすぎない。
意味を意味たらしめている“私”というのはオリジナルのものであり、誰かにとっての意味のあるものが無意味であることも当然ある。

ときに主観は窮屈なものでもある。一方からの判断、それぞれの個人の思想・事情・背景が異なる限り、それは違う。
「超意味」というのもあるように、意味は捉えようが無いだけかもしれない。


私はふとしたときに虚無感を感じてしまうことがある。

それは否定的な感情を持つときだけじゃなく、肯定感が周りを包んでくれるときでも・周りに支えてくれる人がいたとしても。
今、こうして文字を打っていることすらも。

何も意味が無い。無味乾燥。何も無いように感じてしまう。

そもそも意味を求めること自体がナンセンスでもあるのかもしれないけど、ふと空いた虚無の心に意味を以って埋めようとしてしまう。

しかし心は瞬間瞬間でうつろう。
そのときどきの行動が、言葉が要求されるときがあるように、瞬間の虚無に全てを求めて空虚に陥るのは違う話。

求めるが故に得られるものもあれば、追うからこそ遠のくというのもありましょう。
今の自分を満たすことが…今、求められる自分を尽くすことが小さな意味を満たすのかもしれない。
それを感じる“私”は代え難い感覚だと思うので。