藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“【V・E・フランクル】 : 『それでも人生にイエスと言う』読了。と邂逅。”

2012 01 27 それでも人生にイエスと言う


V・E・フランクル 著、『それでも人生にイエスと言う』を読みました。

キッカケとしては以前、諸富祥彦さんの『人生に意味はあるか』を読んで、フランクル哲学の一端に触れたこと。

本書は“生きる意味”を問う上で世界的に有名な書物であることは存じておりましたが、本屋にて『意味への意志』の帯を見て、“人間は意味を求める生物である”(…だったと思います……。)という文を読んで惹かれたので、取り敢えずこの本を読んでおこう と思いました。

ナチスによる強制収容所の体験として全世界に衝撃を与えた『夜と霧』の著者が、その体験と思索を踏まえてすべての悩める人に「人生を肯定する」ことを訴えた感動の講演集。
『夜と霧』の著者として、また実存分析を創始した精神医学者として知られるフランクル。第二次大戦中、ナチス強制収容所の地獄に等しい体験をした彼は、その後、人間の実存を見つめ、精神の尊厳を重視した独自の思想を展開した。本講演集は、平易な言葉でその体験と思索を語った万人向けの書であり、苦悩を抱えている人のみならず、ニヒリズムに陥っている現代人すべてにとっての救いの書である。
(amazon商品説明より)

先ず思ったのが、第二次大戦後でありながら、フランクルが憂いている世界・社会の実情が現在の状況とさして代わり映えしないんじゃないかと思わせられたこと。
“生きる意味の喪失”、人がモノであるかのように、人間自体が労働の手段自体として扱われること。
“「生産的」ではなくなった生命はすべて、文字どおり「生きる価値がない」とみなされたということです。”(P.7)

…あぁ、もぉこんな昔からそういう空気が意識が漂ってしまってたんですね。
逆に言うと、戦後…に講演されたものとはいえ…本書が出版されたのが1993年ですけど、それから20年あまりも、そう思わせられる状況、そう思ってしまう人が多くいる…というのは、時代として何も変わってないという失望感はのっけから感じますね。
“一般的な進歩はせいぜい技術的な進歩。”“何が進歩するのか、ひとりひとりの内面の進歩しかないということです。”(P.9 要約抜粋)
これもずっと色んな本から読んで思ってきたこと。
技術が進歩してるから、人間の人格・性格も過去に比べて進化してるように勘違いしてしまう……というような。


さて自殺の理由について。
”そもそも生きる意味がまったく信じられないという理由で自殺します。”(P.21)
と。ここで触れられていたのは、自殺を決断する際の思考として、人生を『決算』すると。これ以上生きてても、何も見通しがない。ということ。有意味性を感じられないから…というコトを示されてると思うのです。

で、その意味については以下のページで、“無期懲役の囚人が船で移動時に海難事故に遭遇して、救助活動を行い減刑された”(P.28)こと。 “チェスの盤での駒の運び方のようにその局面局面によって「良い手」は異なる。だから「唯一の良い手」というのは無い”(P.30)
というような、そのときどきで、意味を与えるものが出てくると。

このエントリの冒頭に示した諸富さんの書籍を読んで…というのは、『私が人生の意味はあるかと問うのでは無い。人生が私に意味を問うているのだ。』というフランクルの言葉がその本に用いられていて、それが引っかかっていたのですが、上記の囚人やチェスの例にある、そういうコトを示していたのか、というのは、頭の上で、理解としては可能となりました。


……しかし、
ネガティブな精神状態に至っているときには、どのような意味を持つものも、意味を与えてくれるものも、一切全てがどうでもいいものになってしまう。
逆に、有意味性のある出来事を体験したこと自体が、その後の自分の心が虚無に感じてしまうような。
『悪いことがあったら次は良いことがある』というポジティブ思考ではなく、『悪いことは続く』とか、その有意味の体験をしたことによって『良いことがあったんだから(海難事故の救助に“自分が役に立ったという感覚を得られた”だけ、または“褒められた、恩赦を誰かから受けた”としても。)次は悪いことがある』というような、

自らが、不幸体験を重ねることで安心感を得てしまうような。『あぁ、だから私はダメなんだ』という一種のヒロイズムに浸るような。……それはおそらく過去の因果から、幸福であるという体験が…それに伴う生きる意味を感じさせるような感覚が元来無かった・積み重ねてこれなかったから、生きる意味を肯定的に感じることが出来ないことも考えられるのではないでしょうか。

“チェスの盤面をひっくり返す”(P.45) …ようなことも、やりたくなってしまうものです。チェスのゲームを人生に喩えて、チェスの駒を一つずつ考え進めていくのが人生で、随所対応していくものだから、テーブル返しのような行為は違反だとしても、じゃあ何故チェスを始めたのか、人生というゲームを何故始めたのか。
…チェスを始める前から、人生を始める前、生まれる前からそれを・人生に臨むことを望んで生まれてきた
とか言うのでしょうか。(そのような記述は本書には無かったです。)

本書の小見出しの一つ取ってみても、“人間は楽しみのために生きているのではない。”(P.22)とか、“しあわせは目標ではなく、結果にすぎない。”(P.25)と記されてあります。
しかし挙げられるのは、その『しあわせ』と称するものや、『人生』と称するものは、その瞬間瞬間に偶発的に感じられるものとあり、たとえ過去のトラウマから現実に体験する・一見『自分というものを肯定してくれる出来事』自体に全く『幸福』や、『意味』を見出せなかったとしても、それは時間をかけて氷解させていく …ということになるのでしょうか。

意味を感じられない出来事の意味を書き換えていく。
…とか。



(読んでいて、多角的視点から如何に肯定的に人生を捉えていくかが明記されてましたが、どうしても…小さなことかもしれませんが、ツッコミたくなってしまう箇所も出てきてしまいます。以下、長くなるかもしれませんが、さらに挙げてまいります。)


仕事・経済的な状況について。
なにをして暮らしているか、どんな職業についているかは結局どうでもよいことで、むしろ重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最善を尽くしているかだけだということです。(中略)各人の具体的な活動範囲内では、ひとりひとりの人間がかけがえなく代理不可能なのです。”(P.32)
そして次のページでは、失業者の場合や、ベルトコンベアーで単純作業の労働者の場合について、
余暇でこそはじめて、意味のあるものに形成され、個性的で人間的な意味で満たされます。”(P.33) と。
たぶん、仕事自体が人間の有意味性を持つだけではないし、そうではないものによって人生の意味を構築できる人もいる。人生において、意味の感じ方は人によって異なる(さきほどのチェスの盤面局面然りだと思いますが。)ということでしょうね。
で、経済的苦境に伴う、飢えの問題について、
もし飢えになにか意味がありさえするなら、きっとまた進んで飢えを忍ぶものだ”(P.34)
これに関しては疑問です。
日本でも近年の問題で失業者・低所得労働者が溢れ、生活保護すら受けられない人…、『「おにぎり食べたい」と日記残し…』…て、亡くなった人というニュースもありましたし。

[リンク]:『「おにぎり食べたい」と日記残し…働けないのに働けと言われ、生活保護を辞退した男性、自宅で死亡』(2007年7月11日・痛いニュース)

また同じ意味で病気について、本書では第2章“病を超えて”の中の、項目とすれば P.74からの“多忙な広告デザイナーだった男性が突然脊髄の腫瘍を患った”ことについて挙げられてる点。

徐々に自分自身の身体機能が思うようにいかない中、それでも最善を尽くしていく、自己表出を続けていく、という、決して、健常な状態から重篤な病気になったコトによって悲観的にならず、『今、できること』を尽くしておられる姿勢はすごいし驚きさえすることではありますが、どうしてもその際の治療費とか維持費とかを考えてしまう。
それが本書では明記されてなかった。
重篤な疾患の場合、まして例のあまり無い病気の場合、なかなか病院でその病気がなんなのか判明することも難しいし、障害者認定がどうなのかという問題もその書類でのたいへんさもある。
(このあたりは大野更紗さんの『困ってるひと』を読むと理解のバランスが取れるのかもしれませんが。)

先天的に重篤な病気の状態で生まれた子どもについて(P.104),愛情を注ぐということ、その代え難き愛情とその存在の意味はとても理解できます。一心に働いてお金を稼ぐことも。

けど、そのまま年を重ねていき…『重度障害の62歳長女の首を絞めて殺す…85歳母を逮捕 「介護に疲れた」
』というニュースも最近あったり。

[リンク]:『重度障害の62歳長女の首を絞めて殺す…85歳母を逮捕 「介護に疲れた」 』(2012年1月12日・アルファルファモザイク)

支える側がどうしても持たないこともある。
精神的な面から施設に入りたがらない人、入れても家に戻ってきてしまう人もいるだろうし。(ご年配ともなると長年暮らしてきた慣れ親しんだ家を離れたくない。というのがありますからね。それは震災によることで思う人も多いでしょうが。)それを支える家族はお金も稼ぎつつ家族も支えつつ。
また介護施設自体…そこで働いてみえる方の苦労・大変さもなんとも言えない。給料も少ないでしょうし。第三次産業って人に接する…ある意味今の時代に求められるグローバルな人材の根幹とも言える…コミュニケーションを図れる人材が(多国籍語を話せるの是非ではなく。言 葉 が 相 手 に 届 く か が 重 要 。)薄給で過度な働きをしているのは如何なものかとも思いますし。

さてもちろん、病気になることで精神的に得られるものもありましょう。
“生”に対して“死”があるからこそなにか活動的に物事を為そうという気にもなりましょう。
生命が生まれ、老いていく過程で、出来ることが限られていく必然の枠組みの中で、病気などによりその活動が制限される中で…ただ、“自分”が可能な本分を尽くしていくのは真っ当なコトだと思います。

ただ、
経済的な事情、生まれ持ってある能力、自身が存在するその周りの環境。
それが生まれ持ってある、言うなれば、運命とも称してしまう境遇が 社会的な事情により閉口の経過を辿ることも必然ということになってしまうのでしょうか。


『生産的な行為が出来ない人間は咎められる存在か』について、
経済を循環させるために生産や消費活動ができない人は生きてる意味が無いのか。
労働力を産み出すことの出来ない人は生きてる意味が無いのか、という点。

“国家は「非生産的」な個人を殺害する義務があるという反論”(P.99)の項についてでは、食品や労働力をシェアすることの旨が記されてました。
必要品を節約するために、パーセンテージからするとごくわずかな不治の患者を殺害するという手段に頼らざるをえないほど、経済的に悪化している国家は、経済がどっちみちとうの昔にだめになっているのです。”(P.100)

……これはどうなんでしょう。。。思うのは、持ってる人はいつまでも抱えて、循環がしない、行き渡らないんじゃないかという懸念もあるんですよね。だから いらんコトで『節約』してしまってると思うので。

たとえば今の日本はそのあたり微妙なバランスで、東日本大震災で食糧が不足した中での分け与えあったという話を聞く一方で、どこかの会社の偉い方々は自分達ばかり利回りのいいことしか考えない。

また、非生産的というか、国家に対して、社会に対して、ある一つの人間関係の集団において、害悪しかもたらさない存在……というのは考えうることなのでしょうか。
誰しも生きる意味がある? 大阪の学校に入って無差別したあの犯人にも?(亡くなりましたが。)
拉致をしたどこかの元首も?(亡くなりましたが。)


精神疾患により…それが先天的でも後天的でも…そうなってしまった場合、当人の中での常識や善悪の分別があまりにも著しく乖離している場合。
…またそうなってしまった身内を抱えた場合の意味をどう問おう。

なるべくしてなったもの?それすらも受け容れて?

このあたりはよく分からないですね。



第3章、主に、選択したことによる、現実に与えた影響についてだと思われますが。

“おそろしいのは、瞬間ごとにつぎの瞬間に対して責任があることを知ることです。”(P.160)
人生は選択の連続である という言葉を示唆するようなことですが、選択していないほうは、永遠にその可能性が失われるものとして、逆に選択したほうは、『私』が日常の中に存在として起こしたこと。その劇的な面白さが見受けられるということでしょうか。

“責任のよろこび”という小見出しがついていますが、人の選択はその場その場において無自覚です。
収容所から出てこれなかった人もいるであろう中で、フランクル氏が生きて帰ってこれた。誰かの采配の中の選択として生かされている ということへの自覚は、なかなか感じにくいものかと思います。





本書では記されませんでしたが…“苦悩は比較できない”というところに書いてあったくらいかもしれませんが、幸福な状況を比べること、日常の個人的な事情、唯一性を比べること自体が、いかに無意味であるかというのは考え得ることではないでしょうか。

しかし、
2章の最後に“世界はまったく無意味だというのも、世界のすべてが有意味だというのも、同じく正当な主張です。”(P.112)
3章の後半のほうでは、
「無」か「神」かという選択について(中略)神はすべてにしてかつ無であるからです。「すべて」を凝固させ概念にしてとらえると、溶けて「無」になってしまいます。それに対して、「無」は正しく理解しさえすれば、結局それは捉えられないもの、ことばでいい表せないものであり、そういうものとして私たちにすべてを語るのです。”(P.157)


正直、これが絶望的状況下において「それでも」と前を向いて歩けるものとなるかは厳しいかもしれません。
「生きる意味が無い」ことも、レトリックとして 「無」が翻って意味を持つものと考えられなくも無いです。
しかしながら、意味を求めざるをえない人間という生物が、少しでも意味を感じる、その一端でも担うときがくるかもしれないため、本書は少なからず 生きるよろこびを知るキッカケとなるかもしれませんね。


巻末の著者解説も面白かったです。
ニーチェ永劫回帰説も踏まえつつ……苦しみが繰り返される中にも…仮に、自分を必要としてくれる人が誰もいなかったとしても、それでも今から先を歩む上で出合う『人生』に、『必要』が求められることは完全否定できないから。

それでも人生にイエスと言うそれでも人生にイエスと言う
(1993/12/25)
V.E. フランクル

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