藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“普通にいい人の日々”

[外部リンク] : 『何のために学ぶのか、何のために考えるのか? 飯田泰之×finalvent(『考える生き方』著者)』(SYNODOS JOURNAL)

[外部リンク]:『「つまらない大人」になる方法』(デマこいてんじゃねえ!)


私にとって、『普通』っていうのは何処か嫌悪だったんですよ。
『普通』というのはつまらないものだと。

日々にある刺激があってこその面白さで。けど、刺激ばかりでは疲弊するからたまにはのんびりした暮らしを求めて、けどまたそこにつまらなさを感じてしまう。

普通に生きること、普通の人であること。それでは埋もれてしまうんじゃないか って。
たとえばお金を稼ぐこと然りでも、何か特長を得なくてはいけないと思ってしまうもの。特別なスキル、特別な知識を得なくてはいけないものだと思ってしまうものです。

で、私がそれを得たい、それを目指す っていうコトは、そうではない普通の人のことを私は心の中で排除しているのです。

だから普通からの『減点』も過度に恐れてしまうフシもある。

で、そのクセに、ヤンキーがモテてたりする…ちょっと悪い人がモテてたりすると、自分の中で嫌ってた『減点対象』に憧れたりもする。


でも本当は『加点』も『減点』も関係無いんじゃないか?
『肯定』も『否定』も。それを賛美するワケでもなく恐れるのでもなく。
『肯定』も『否定』も包括して それに縛られないのが普通に歩むことではないでしょうか。
だって何してたっていずれ躓くときは来るから。


普通の人生を生きるのって結構大変なんですよ。そして大変な人生を生きていくなかで、文学や思想の課題といった陰の部分というものがどうしても生まれてくるんですね。自分はどうしてこういう風に生きてきたんだと、人生のほうが自分に問いかけてくる
(シノドスの記事の後半より)

赤字にしたところがフランクルの書籍で触れてたフレーズだったので、言葉がスッと入ってきましたね。

自分が否定した『否定』の部分があとから飲み込めるときがくるかもしれないし、『一般教養』っていうのは結局多くの生き方を知ることからなんじゃないですかね?
受動的でつまらない生き方をしているようでも、そのときに求められる選択を下しているのは自分だから。
普通にやってくのもフツーに大変ですよ。ほんとに。