藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“【諸富 祥彦】 : 『人生に意味はあるか』読了。”

諸富 祥彦 著、『人生に意味はあるか (講談社現代新書)』を読みました。


私が好きな漫画家さん、夜麻みゆき先生がこの本を読んでらしたので、私も購入しました。
…ちなみに、“100分de名著”を最近見始めたのもこの影響。

ニーチェの特集は第4回しか 間に合わなくて見れなかったんですが。

本書の感想といえるのかどうなのか分からないのを書いていきますが……。


先ず、この本において、色々な立場からの『人生の意味とは』、『生きる意味とは』みたいなものの答えをたくさん示されてあること自体に 参考になりましたね。

学生の考え、
色々な、文学作家、
宗教的な立場から、
哲学的な立場から、
スピリチュアルな立場から、

そして著者である諸富氏の考えまでを。

ありがちなのが、『“意味”を探すことに“意義”がある』から生きなければならない とかね。
…まぁ、私にしてみたら てんで役に立たないんですけど……。




そもそもね、こういう、『なんで生きるのか』みたいなものを考えてしまうとき っていうのは、苦難や苦労が耐えない状態・状況が続くからこそなんですよ。
あとは、今 良い状況下であっても、過去の悪い状況を体験してるがゆえに、『どうせこんな暮らしがいつまで続くか分からない』なんて思ってしまったりね。

『生きる意味を探すために生きている』のが、苦痛なくらいだから、生きていたくない んですよ。

もうね、探すのも面倒くさいんですよ。
生きる意味を求めて生きる中で、また苦難にぶち当たるワケですよ。
うんざりですよねぇ。



スピリチュアルについてですが、
まぁ、その前に、どんな宗教、宗派であろうと、なんで多くの人は『輪廻転生』というか、人は生まれ変わるみたいなことを漠然と“分かってる”んでしょうかね。
ちょっと前の江原さんブームとか関係ないと思うんですけどね。これに関しては。

しかしまぁ、スピリチュアルに関しては神秘体験がベースになっているもので、こういうのは体験・体感した上でないと分からないんですよね。
仮に、本書で紹介されているスピリチュアルな方々が、実際の体験に基づいた上での説得力を以って生きる意味を伝えてるとしても、それが 伝えられた聴き手にしてみたら体験してないワケですから腑に落ちない部分はありますよね。

もし、スピリチュアルなものが体験できたりしたら、それは 納得のいくことだとは思いますけどね。

ちなみにまぁ、私も過去に結構 江原さんの本とか読んできましたし。バシャールとかも好きなんですけど、今は距離を置いて考え中。
なにより生きる意味を問われて、江原さんが『生き抜くことに意味がある』と言うのはともかく、江原さんの考えに影響を受けてる方が 生きる意味を問われて、同じように答えてるだけなのが微妙ですよね。



哲学の立場ですが、私にしてみたらこれは最近なんですけどね。
ニーチェの考えに触れたのが。

ニヒリズム。一切に意味は無い。虚無感。というのは非常〜に共感してしまいましたよ。
で、ニーチェの言う、至福の瞬間,至福の体験というのがあれば人生を肯定できる …ということですが、それがあれば生きていける とありましたけど、

それがあるからこそ 虚無感を感じるんですよね。

祭りのあとの日常が とても寂しく感じるように。
なにより祭り…というか、特別に楽しい出来事よりも、つまんない日常の方が長く続くワケです。
(というか同じ項の宮台さんのくだりで、(P.102) 強い刺激のあとには空虚感に包まれる ってありましたけど、その刺激の強さなんていうのも感じ方次第ですからね。)
その、楽しいことの為に頑張るんだけど、その時点で、楽しいことよりもその先の、“さらに楽しいことのために 頑 張 ら な く て は な ら な い 日 常 ”が目に入ってしまって、まさに永遠回帰。幸福も苦難もループするのが見えてしまうのね。

その絶え間ない苦労の日々に、幸福という刺激の…快楽のドーピングを恒常的に・無意識に与え続け、延々と走り続ける。
にんじんをぶら下げた馬のように。

…―――だから 生きる意味は 無い。と思ってしまうんですよ。




ビクトール・フランクルの考えについては初めて知りました。
でもこれは、“意味”の問いの立て方が、分からないと 解釈を間違ってしまってちょっと困りますが。

その、瞬間瞬間に意味はあって、普遍的な意味は無い というのはまだ分かりますけどね。
でも、それを俯瞰で考えてしまうと、世の中は無常で、うつりかわり、“私”が過去に確立した誰かのためへの意味が、その誰かにとっては意味が移り変わって“私”にとっての意味を為さないものになってしまうのでは とも考えたり。

久しく会う、家族や友人と、どこかぎこちなく合うハズのものだったものが変わってしまってたり。嗜好や思考が変化してしまってたりとかね。

P.170の老夫婦の話に関しては ちょっと納得するところもありましたが…。



しかし、
『“私”のことなんて誰も必要としていない。』とは思ってしまいますよ。
世界は“私”とは無関係に回り、“私”が無くても必ずどこかで埋め合わせが生じて、そして忘れ去られて回り続ける。


というか、P.25でフランクルの言葉を紹介して、それが許せないとした患者さんの言葉がありましたけど、フランクルの考えも納得いかないですもの。

このP.25の「」で括られた言葉の部分、ホンッットに共感しますよ。(まぁ、私はそこまで辛い体験はしてませんが。想像に難くないですよ。)

待ってる誰か とか、どんなときも意味がある とするならば、虐げられ利用されてくれることを向こうは期待していて、価値を蹂躙されることに意味がある ってワケですか。なんという皮肉。





で、著者の諸富氏の生きる意味に関しては、7年かけた上での、神秘体験みたいなものでこれまた納得いかず。そして『いのちが 私している』という点ですが、
これ、生きる意味とか 人生の意味とか っていうよりか、命の在り方になってるんですよね。
ただ、これは過去にアルボムッレ・スマナサーラ氏の本を読んでても思ったことですが。
(というか、親鸞とかには触れてたけど、その源流の仏教に関しての生きる意味の視点は書かれてなかったですね…。)
(同じく、『自我の破れ』という言葉を本書では使ってましたけど、ブッダ視点では『“自我”があらゆる問題の根源なのだ』とあるので、これもこの書籍としては不透明な部分ですよね。(当ブログの、『100分de名著・ブッダ真理のことば』や、『アルボムッレ・スマナサーラ氏の著書を読んだ』関連で参照できるかと。))
(というか、自我を破りなさい ってコトか? (P.228から。))


命の在り方 に関しては、ある意味で 突き詰めきらないと腑に落ちない…というか、腑に落ちるときがくるんでしょうかねぇ。




総じてですが、
『自分で見つけ出さなくてはなりません』
ですよね。

一個一個、疑問をぶつけ続けてきましたが、全く納得いっておりません。

一切全てに意味は無い と思っています。

むしろ意味づけすること自体がナンセンスなのかもしれませんが、
そうでなければ不都合な出来事や不幸が訪れたときに、嘆き悲しんだり、怒ったりすることも無いハズですから。

好都合な出来事や“幸福”、“受容”などは、理由もなく受け入れて、そうでない出来事には納得いかないから、腹が立つから、受け容れたくない・意味が分からないから反発したくなる(怒りたくなる)もので。

(ま、私の場合、好都合な・幸福な出来事や、受け容れられてることにも疑問を持ってしまったので、非常に引き返せない思考になっておりますが。。。)

人生や未来というものが、全く光が見えないからこそ、考え尽くしたいと思います。
(としか今は言えないです。)

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