藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“2011年もとうとう12月に入ってしまいましたよ。(自己と相対)”

先月の今頃は夏日とか言ってた気がするんだが…。
すっかり冷え込んでしまいましたよ。

うん?

いや、ぶっちゃけ書くことないからどうでもいいこと書いてるだけです。そんな話の切り出し方です。(←



いつも私は『比較の発想』に脳がやられてしまってですね、全く健全な思考に至れてないんですよねぇ。それが常に難点。
ニヒリスティックなのもそう。

で、12月。今年なんか達成できただろうか? なにか進歩しただろうか? と問われると、自分の中でチャレンジしたものはあったし、やっと出来たこともあったけど、いかんせん自分の評価だけではダメなんですよ。
結局ただの自己満足に終始してしまってて、進歩してないような気がするんですね。

自己評価だけでは満足できないというか、他者との相対評価・他者からの評価を受けてこそ、自尊心が満たされる。…というこの弱さ。
これは言ってしまえば当たり前のことなんですよ。よくあることなんですよ。
でも、実に『つまらない』。
それを望むことによって、満たされてしまう自分があるコトが非常に小さいこと であるコトを自覚しながらも、それを求めてしまう自己矛盾。

そうしていく中で自分の中に湧き上がってしまうものなんて、結局は“焦り”でしか無いんですよ。
これまでにこれが出来なければダメだ。こうならば、こうでなくてはならない。というような。

対象が、“世界”でも“社会”でもなんでもいいんだけど、特定の誰かでもいいんだけど。

“かけがえのない自分”というものを発見されたいんですよね。
(『よつばと!』の新刊の帯じゃないですが…。)

でもそんなものはきっと無い。
それに、誰しもが自分のことばかりを考える(批難ではなく当然)のだから特別なものなど在りはしない。

そもそも自分自身で自分のことを知ってるかというとあやしいし、自覚できてたとしても開き直るという本末転倒。

能動的な行動が他者による評価が原動力という、それは『真摯に人のために』という意思とは異なるもので。
自分で評価を下すことができないから他者の評価に委ねるという自分本位であるのに他力本願というような矛盾。
これが“自分”をつくってるんだから翻弄されっぱなしである。



なにが書きたかったのか、こんなコトが書きたかったのかこれ読み返してもよく分かりませんが(笑)、12月、あと今年も1ヶ月。
定型文の『この1ヶ月で本気出す(`ω´)』みたいなコト言っても慌ただしく過ぎていくんですけどね。