2012年6月13日放送。
100分de名著 パスカル パンセ 『第2回 もっと誰かにほめられたい!』を見ました。
司会・島津有理子アナウンサー
伊集院 光
……100分de名著 自体を久しぶりに見ました。MCが変わってから初めてです。
なんとなく内容の サブタイトルに惹かれて見たいと思ったので。
今回、第2回の雑感なのですが、
第1回は、選択のことについての回でしたけど…就職など働くことを軸とした。…ひきこもるにしても、じっとしてるのはよくない。人間は運動するものである。というような。
選択肢があるから不幸である。とも言うような。
……そんなような内容で。
そして気になったのは第2回。
以下、見ながらのメモ。(文章オカシイとこあると思いますがそこはご了承。)
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褒められたいものである。
真実は苦味を伴うものである。
真実は人を傷つける何故なら 自己愛を傷つけるからである。
パンセより【愛してやまない自分が実は欠点だらけで 悲惨のどん底にあるのになすすべが無い場合である。このような困惑の中に置かれると、人間の中に 最も不正で罪深い情念が芽生えてくる。 自分の欠点を 誰の目にも触れないよう 覆い隠そうとして全力をつくすのだ。】
自己嫌悪の本質は自己愛である。
自己愛の強いものほど自己嫌悪も強い。
自己愛は憎むべきもの?
自己愛はなくせるのか?
日常がストレスフルだからこその充実した人生を送っているという、褒めれれたい願望もあれば、
ひどい目に遭っている という自慢話もある。
自己愛が生まれるのは、他者がいるから。
他者と関わる以上、自己愛から免れない。
パンセより【虚栄は、人間の心に非常に深くいかりを下ろしている。兵士も料理人も、誰もがみな、それぞれに自慢話ばかりして、賛嘆者を欲しがるのだ。 哲学者だって同じだ。そうした人たちへ 批判を書く人だって、的確だと褒められたいのだ。 批判を読んだ者も、読んだという誉れがほしい。これを書いてる私ですら、そうした願望を持っているだろう。そしてこれを読む人だって…。】
伊集院:「何か本を読むのも、これを人に面白おかしく伝えたいから読むのであって…。読みたいという自然な欲求が僕には無いんじゃないか。映画を見に行くにしても、この映画見たんだぜ って話をしたいだけでであって、話す職業してなかったら何がしたいんだ ってコトに…。そういうものに悩んで…悩んでたので、そういうものだとされるとホッとしますね。」
パスカルの自己愛 と 人から褒められたい …というのは、人間の根源的な衝動。
どーだ理論。衣服など身につけてるものの自慢話をするコトもだし、自慢話をしない、謙虚な態度だろう? という「どーだ!」というのもある。
パンセより【人間の最大の卑しさは、名声の追求にある。しかしまさにそれこそ、人間の卓越の最も大きなしるしなのだ。なぜなら、人が地上でどれほどのものを所有しようと、どれほどの健康さと快適さを得ようと、その人は、人々から尊敬されていなければ満足できないからだ。】
パスカル理論の特徴的なところで。すべてを一方的に否定し、激しく断罪してるワケですね。
くるっとひっくり返ることもあるんだ。という。
読者に向けて、これを読んでるアナタも卑しい。といっておきながら、それこそが必要な行為。
ここまで人間というものが進化してきたのもその欲求があったから。
島津:「そのエネルギーを前向きに使えばいい というコトですね。」
但し、考えることは必要ですが。
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(以上 メモ)
なんというか、結構エグいですね。(^^;
『真実は人を傷つける』というコト自体は、その行為が相手の覆い隠したい醜い・不完全な部分だからこそ、怒りとか 激昂することによって表出される、……だけなんじゃないか、って思ってました。
が、
『自己嫌悪の本質は自己愛である
自己愛の強いものほど自己嫌悪も強い』
というのはグサッときました。
結局、上に書いたように 怒るとか、そういうエネルギーが内方向に向かうだけで。本質は変わらないんですね。
何かやらしてしまったとき…失敗してしまったとき、他者からの批判を受けたとき、一般的な価値基準から自分が漏れてしまったとき……自分が何かに劣る(と思い込んでる)とき…、すっごく凹んで。
…あぁイヤだ。死にたい 死にたい と思うんですよね。
けどそれは、自分で自分を 傷つかないように傷つかないように……大事に大事にしているがゆえに、ちょっと“他者”によってキズ(この“キズ”の深さも、各個人によって解釈が違って、小さなキズでも大げさに捉えてしまったりもするもので)がつくと……
……誰か(他者)から欠点を指摘されたり、
一般的な価値基準(他者)という共通認識から自分が漏れてる(働いてないとか、役に立ってないとか、ハゲてるとか、太ってるとか)と自覚してしまったり、
すると、
『うわぁぁぁぁぁあ! あぁぁイヤだ! 死にたい死にたい』
ってなってしまう。
でもそれは自分を愛しすぎてるがゆえに。
自分が嫌いすぎるのに。
『愛の反対は無関心』
という有名な言葉があるけど、
これは他者に対してのことのみならず、
愛してるから嫌いになる。
自分を愛しすぎているから、何か 自分の中で“許せない”ことがあると、すっごく自分を嫌いになる。
自己愛が強いから、自己嫌悪も強くなってしまう。
……このへんは すっごい刺さりましたね……。
ブッダでも自我の執着が原因と、人における根本原因は自我とどう向き合うか とあったような。
そして後半の『ドーダ理論』。
どーだ(自分のした行為、業績・実績)すごいだろう。
どーだこれ(この映画、この作品、この行為)面白かったろう。
この 褒められたい願望。
(近年よく使われる、『ドヤァ…』とか『ドヤ顔』よりも、もっとシンプルで単純(に見える)なコトから、『褒められたい願望』が滲み出てるのね。)
伊集院さんの「人に伝えたいから本を読むのであって、読みたいという自然な欲求では無いんじゃないか。話す職業をしてなかったら何がしたいんだ ってことに…」
という部分はすごく共感。
自分にとっての自然な欲求とはなんだろう。と そう思ってたので。
けど、それ(褒められたい、認められたい、共感されたい)自体が自然な欲求。そういうものなんですね。
(まぁー、私もブログ書いて来て、始めはただの自己表出だったけど、それが初代ブログでは徐々にアクセス数が増えてきてリンク張って頂いたりしてきたけど、1回それを体験してるからこそ、現在の2代目ブログでも、その過去に満たされた感情をもう一度満たしたい、っていうのは出てきてしまいますね。)
で、パスカルはそれ自体も否定せずに、そうして褒められたい願望を満たされて培ってきたからこそ、
(これは言ってしまえば、褒めて伸ばす を実践し続けてきたからこそ)
今の発展があり、成長があるのだ。っていうことなんでしょうね。
(つい先日見た、NHK教育テレビの『Rの法則』でも、ヒャダインさんがエビチュー(私立恵比寿中学)のレコーディングで、メンバーの女の子が素人耳にもピッチ外れてるのは分かるけど、ヒャダインさんはすっごい褒めてて。「レコーディングは楽しくなきゃ」とか、「そうすることによって、彼女たちから良いものを引き出す」とした姿勢をとってて。)
(ピッチが外れてる。っていうのは一般的な価値観で、外れてるのはよくないと。そう指摘されると ダメなのか、ってなる。けど そういう小さい(ような)とこでも、肯定することによって、肯定されることによって自信になったり今後の力になっていったりするのでしょうね。)
(第一、ももクロも決して歌はうまくないほうだと思うけど、破天荒というか、全力っぷりというか、なにより楽しそうなところに惹かれる ってのがあると思うから。)
ネガティブで自己愛が強く、今まで色んな人に一般的な価値基準から否定・批判ばっかりされてきた私は、自己嫌悪が非常に強いです。
けど、自己愛は逃れられない。今までなら「じゃあ死ぬしかない」と思うほどに、『自己愛=自己嫌悪』自体を指摘されると「…もう どうしようもないじゃないか。。。」とさらに凹むところ。
しかし、
ここで自己愛自体を肯定し、さらに、結びで、
「そのエネルギーを前向きに使う」『考えることが必要』(これは次回に続くことですが)
としたのは、希望の残る回だったのでは無いでしょうか。