親しい人に「田中さんにはガッカリした」と言われた。数年前ならメンタルにこたえるセリフなのだが、最近Twitterでよく見る「その人が思うとおりにあなたが動かなかったことから出てくる発言」という言葉に救われてる。思い通りに僕が動かなかったことでボクが自己肯定感を下げる必要などないのだ。
— はぁとふる倍国土 (@keiichisennsei) 2020年9月15日
つくづく、他人に対して「ガッカリした」は禁句だよな。ましてや知人に対して。とても失礼だと思う。
— はぁとふる倍国土 (@keiichisennsei) 2020年9月15日
「ガッカリした」と言われると傷つく、とわかって使ってるよね。言ってる側は。ずるい言葉だと思います。disっていながら被害者みたいな立場に自分を持っていってる。あなたのせいでガッカリさせられたと。
— ニンパイ (@shinobuk) 2020年9月15日
>> “~と言われると傷つく、とわかって使ってるよね。”
相手を傷つけるつもりで使う言葉、ということは、その言葉を使えば傷つくだろう と想定できる言葉で。
それをやれば相手が傷つく と想定できる ということは、そうなる痛みを、与える側が自覚して使っている ということで。
で、
あらゆる言葉に『反応』し過ぎるのもまた繊細すぎだろう という視点もあったり、
悪口を皮肉で包んで牽制したり、皮肉が本当に通じなさそうな人に皮肉を込めて言うことで、言う側が満足して言葉で殴りたいこともあるし。
意図されたものもあれば、誤用や誤解もありますし。
私が、被害者立場だけを取ってギャーギャー都合のいいこと言って、攻撃したい ということもあります。
「自分は誰かに攻撃されている」と感じている時は一番「自分も誰かを攻撃している」と気づきづらいタイミングなので、そういう時ほど自分の攻撃性について敏感になっておきたいし、また誰かにそれを指摘する時はより(気づきづらいので)丁寧にしたほうがコミュニケーションの摩擦係数は少ない。
— たられば (@tarareba722) 2020年9月13日
あります。
だからそれは “部分” の話で、絶対的にその立場が状況が持続されるものでもない。
けど、優位に立ちたい感情が、誰かを傷つける為に意図してそのような言葉を使いたがってしまう気持ちになるときもある。
ありますよ。
この文を書いてる今は、割と平常心(?)なので、フラットな感じで書いてますけど、誰かが近くにいるときとか、自分が仕事で切羽詰まってるときとかは、そういうものに配慮しないでいてしまうこともありますもの。
勘違いや誤解、そのときのコンディション、状況次第で、コミュニケーションが齟齬を発生させることなんて当たり前ですものね。
でも、その状況が冷静に受け取れないときもありますから。
「この中で 言葉を意図して傷つけるつもりで使ったことの無いものだけが石を投げなさい」
としたときに、沈黙するのは見えてますもの。
ま、
>> “~と言われると傷つく、とわかって使ってるよね。”
これが、本当にわかってないで使ってる場合もありますけどね。
や、『ガッカリ』という言葉に限らずとも、その言葉を使えば傷つくだろうとは思わずに、本当に思わずに使ってる場合もありますし。
人と状況によりますが。
考えて言葉を選ぶという選択を採ってないときもあれば、採ったことがたまたま誤りだった といこともありますし。
だから断定できないんですけどね。
人となりを重ねて接していくことでしか見えてこないところもありますし。
重ねた上で、「ダメだ」「合わない」ってこともありますし。