藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“全ては主観的観点から。”

色んな立場で考えてしまう、とはいっても、私自身の視点からは流れられないし、

他人の目が気になる ってのも、それは私自身が気にしてるがゆえですし。

誰かに何かの話を伝えたとしても、話してるのが私である限り、『私からの話』に過ぎなくて、それを聞いた第三者と、

私が伝え話してる状況と 全く同じものを見ていた人が他にいたとき、それを伝え話す内容は異なる。

で、話し方や表現の仕方でも受け取り方は異なる。

 

だから それらを全て見越した上での、私が書いてること/言ってることは、全て主観でしかない。

 

誰々がこう言っていた というのはあまり役に立たない。

 

また、伝聞する人の普段の話の内容にもよるし。

どういう価値観を持っているか にもよるし。


本当に相手の立場になって考える なんてことは不可能。
誰かの立場になって考えることは本質的には不可能。
寄り添うだの感情移入だの共感だの言ってても、その重ねたい感情にご自身の感情を合わせていっている可能性もある。


知らない他人を裁き、殴り、批判し、「あいつはバカだなw」と見下して安心することを繰り返す。
自分が心地よく過ごす為なら他人をサンドバッグにすることも厭わないワケですから。


さて、
でも、
あらゆることが主観的であって、あらゆることは私自身に委ねられてるワケで、
他人を裁いたり殴ったり、自分の持ってる勝手な価値観で他人をこき下ろして批判することも出来るワケですが、
その主観を携えた自身は、どんな自身になりたいのか。


どんな私になりたいのか。
どんな主観的観点を備えて、それを他方へ向けるのか。

他者の一切を排斥し、豪胆に振る舞うことを良しとする自身になりたいのか。
あぁ、いや、それでは人の目が気になるから、ほどほどに、世間的に殴っていいとされてる人は一緒に石を投げてdisるくらいの主張はしておこうか?


あなたはどんな意思を持って主張しているのか。
それともそんなこと一切考えてないのかもしれないけれど。
その場が楽しくあって、その場を取り繕えたらなんでもいいと思ってるかもしれないけど。

 “私” を、どこに置こうか。