藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“逆。”

主観を採用すれば客観は不採用になる。
私の気分の良さだけを主張すれば、あなたの気分を害する恐れがある。

あなたの為を思うあまりに私が謙虚に謙遜にへりくだり、
小さな我慢を続ければ私は感情が少しずつ死んでいく。

あなたの事実や背景をどのような感情を巡らせているかを慮ることも出来るけど、
私はその一切を無視して自分の主義主張だけをしていてもいい。

自己主張だけをしていても良くて、それに対して我慢だと感じストレスに感じる人もいれば、譲ることで貢献感が湧く人もいる。

あなたが我慢してくれたぶんだけ私が自由に振る舞える。

でも相手に我慢させているなどとは思ってないかもしれない。

我慢をしているとは思ってないかもしれない。

我慢を強いられていると思っているかもしれない。


私があなたをサンドバッグのように殴ることで私はとてもスッキリする。
サンドバッグが実は痛いなどと言っていることなどに聞く耳を持たなくてもいい。

サンドバッグが破れることが心配だからと遠慮して殴っていては、本当に出したいものを出せずに消化不良に終わるかもしれない。

実は耐久性がめちゃくちゃあるかもしれないし、実はとても脆いのかもしれない。
サンドバッグの砂が抜けるかもしれないし、吊るしている金具が取れるかもしれない。
実はとても頑丈かもしれない。

思ったより自分の力が弱いだけでそんなにダメージを与えてないかもしれない。





人を深く知れば知るほどに興味が湧くかもしれないし、
深いところに触れて不快になるかもしれない。

丁寧に言葉を用い、敬うことで適切な距離をはかって接することで敬意を表しているのかもしれないし、
他方、それは他人行儀だと思うかもしれない。

一方、仲良くなるべくして近付くことが嬉しい人もいれば、馴れ馴れしくてうぜぇな と感じる人もいる。

仲良くなる手法が褒めることかもしれないし、
共通の敵がいれば結束が固まるからと愚痴や文句を言うことが仲良くなる手段だと思う人もいる。


相手を悪く言いたいから断片情報だけで批判したいだけのときもある。


自分を “ひらく” ときに出てくるのは純然たる願望かグロテスクな欲望か。
そもそもひらいて出てきたものを肯定的に捉えるか批判的に捉えるか。

ただひらいて出しただけのものに値踏みをしている主観と。
値踏みすることも自由である、認めようとdisろうとも自由である …という主観も。


無価値のものに価値づけすることが傲慢とも取れるし、
無価値のものに価値づけすることを傲慢だと他者を批判することが傲慢とも取れるし。


なんでも決めつけずにフラットに受け止めることが最善だとも言えるし、
それを最善と決めつけることが最善ではないと批判も出来るし。



あなたが採らなかった選択が私に適合してるかもしれないし、その逆もある。


“ 今 は ” 批判に寄っているかもしれない。
“ 今 は ” 肯定に寄っているかもしれない。


自分がかつて批判していた言動を今自分が採っているかもしれない。
かつて他人のその批判していた言動を今自分はしているかもしれない。

でもそのときの自分にとっては批判したいそのものだった。

今の自分が、他人のその言動が気に食わない。
過去の自分は他人のその言動になんとも思わなかった。
未来の自分は気に食わない他人の言動と同じことをやっているかもしれない。


同じように自分も 他人から、かつて自分が批判した同じような文言で批判されるかもしれない。
そのときにかつて批判していた相手と同様の弁護を主張し反論するかもしれない。




先々を読み、背景を考慮した現在の取捨選択を採るのか。

今、あくまで 今 の 選択を重ねていくのか。
その選択が、約束が違うだの二枚舌だの矛盾だの一貫性が無いだのと言われるとしても。

一生かけて守るとか愛するとか言ったとして、それは、いつの発言?
今を大事にしたがゆえ? 今後を見通した上で?
重ねる態度も変わらずにいられるはずもなく、かつては良いと言った主義主張を180度変えるかもしれない。
変えないかもしれない。
変わらざるを得ないかもしれない。

 か も し れ な い 。 



あらゆるファクターを考慮に入れた上で尚も “今” の気持ちに断言していけるか。

総ての “逆” を、内包して受け容れて  “今” に純粋でいられるか。