ネットにおけるスルースキルの大切さを説く火の鳥 pic.twitter.com/1bfT6k2R7Q
— 茶之山 (@d1_earth) November 7, 2019
「話し合えばわかるから!」ってのは だいたい地雷で。
話し合って わ か ら せ た い っていうか。
タイトル、“(仮)” です。
断定しない表現ですよ。
わかってほしいこととかわかりたいこと って何かな、
なんでしょうね。
つか、本当に本質的に分かり合うってあり得ないんじゃあないですかね。
わかったフリですよね。
他人のこともわかったフリ。
わかったような気がするだけで。
『こう思われたい』とか『こう思われたらイヤだな』とかあるけど、そんなの分からない。
自分の本当の気持ちというものすらも本当に分からないのに、なんとなく反応アンド反射で返してやり取りし合って。
私の思いなのか気持ちなのか得体の知れないものを投げ合う。
私が言いたいことなのか、この人に言っておいた方がいいことなのか言葉を与え合う。
お医者さんに話すのと友達に話すのでは求めるものはちがうと思うけど、悩みを話す人が聴く人に対して「相手を理解したい(相手のため)」か「自分が理解したい(自分のため)」か、聴く姿勢を敏感に察知している気がするなー。 https://t.co/bCBNfgGVFO
— 桜林 直子(サクちゃん) (@sac_ring) November 10, 2019
齟齬が生じたときに、
「この人とはわかり合えない」
とかって思うけど、齟齬が生じてないなら、会話のやりとりをしてたときに、特に問題が無いのなら、別にそれは、
わかり合っていなかったとしても不足ではない
のではないかなと。
汚い状態は気になるけど、キレイな状態は気に掛けないような。
生活していて困ることがなければ。
そもそも全部わかりたいか?
最低限、「これをされるのはイヤ」というポイントくらいで。
わかっておきたい “部分” 、わかってほしい “部分” だけ、“知っておく” という、程度 で。
関わる人に知らない部分があっても特に困らないならそれでいい。
関わる人と齟齬が生じたときに、それでも関わり続けたいのなら、その部分では分かり合う努力は、努めてみてもいいのかもしれないけどね。
別にあらゆる方向に無差別に『わかってほしい』の刃物を振り回すワケじゃあるまいし。
基本は、わかり合えない …かもしれないね。
けど、関わる部分で 特に不足が無いなら、不満じゃなければ、気にしなくても。
前にDEZERTのライブに行ったときに千秋が曲の間に、
「誰も信じるな! 誰も信じるな!!」
って言ってて。
聞いてる私は「いや、信じてみてもよくね」って思うのよ。
でもこれ、逆に、
「人は信じよう! 人を信じることは大事だ!!」
って言われてたら、「はぁ!!????」って思うのよ。
「絶対に人はわかり合える生き物だ!」
「話せば分かるから!!」
って言われると、信用ならんのよ。
双方の正当性を主張し合って、対立して。
自分の正当性を通して屈服させたとしても、それはその場だけスッキリするだけで遺恨が残る。
私はそうは思わないけど、相手はそう思うんやからそうなんだろうな って部分もあるし。
でも、私はこの部分はどうしても無理だから ってのがあれば譲歩したり。
それはわかり合う っつーか、わかち合う っつーか。
折衷案。
わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)
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これ本当そう思います。
— しいたけ. (@shiitake7919) October 7, 2019
自分でも最近気をつけていることは
「あー、わかりますそれ」
と安易に言わないこと。
「わかる」は共感を示しているようだけど、「わかる〜」を多用しちゃうと、その人との対話で大事な部分をスルーしちゃうから。
「わからない」と言うことが大事なんじゃないか。 https://t.co/alhrNYKT0R
なんでもそりゃ理解できたらいいな って思うこともあるし。
共感が嬉しいときもあるし。
まぁでも屈服させたい気持ちもわかるし。
押し通したいときもあるし。
わからんもんはわからんもんもあるし。
わかりたくないものもあるし。
遺恨も残るし、怨念は続くし。
距離感と部分の組み合わせで あーだこーだやっていくんですよ。