藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“駄文 18 ([人格≒性格≒気質]の確定(?))”

[リンク]:【ライフハックちゃんねる弐式】『性格は変わるか、変えられるか?』【2012.02.03.】

変わると思います。
変わった気になれると思います。
変わらないと思われるとも思います。

スレ内で、「性格とは何か?」の論議の中で、「気質とは?」みたいな流れにもなってたので、
goo国語辞書で“気質”を調べたら、
その3つめに、
心理学で、個人の性格の基礎にある、遺伝的、体質的に規定されたものと考えられている感情的傾向。体液の相対的な割合の違いによって多血質・胆汁質・黒胆汁質・粘液質の分類や、回帰性・分裂性・粘着性という気質分類がある。

と、あった。
遺伝的な それ とすると、それは 基本は変わらないものだ というコトを示してるんでしょうか。
まぁ、そんなレトリックはどうでもよく、“気質”と称するものを含めて、一般的に性格は変わるか否か、という点。

先ず一つ考えられるのは、「年を取って丸くなった」というコト。
これについては、単に鈍感力が備わってきた とも言える一方、カタブツな人はカタブツなままだったりする。執着が強くなった、守るようになった という性格になっていく人もいると思う。


というか、前提として、なんで“性格を変えたいと思うか” ってなると、『今の自分が嫌いだから』。
とか、
『そいつの性格がムカつくから』とか。 都合の悪い 現状があるから。
(“良い性格”“悪い性格”というのも何なんでしょうね。“良い性格”という言葉だけ取ると、皮肉にも取れてしまうけど。)

そう、強い物言いが可能な人が、弱い人を制することを常としてまかり通っていることがあるから。


その、一方で、こちらである。

[リンク]:【哲学ニュースnwk】『感情を自分の中に溜め込む人』【2012.02.04.】

(っていうか、どっちのまとめも 何年か前なのに、なんで最近になってこーゆーまとめが上げられてたんだろかね…。)

素直に自分の感情を外に出せない。
ありのままの性格を、外に、フツーに出すことが出来ない。という人もいます。

私もこの傾向が強いですが。

いつでもどこでも誰とでも、全ての人が素直に自分の感情を外に出すことが出来て、受け容れあってるワケが無いでしょう。
ほんとうに気の合う友人同士なら……まぁ…ともかく。そうじゃない間柄の人とも関わるワケなのですから。

誰だって、仮面を被って生きている。
性格というのは、関わる人間関係によって使い分けている。
……そんなのは当たり前じゃないか、とも思いますが、じゃあ、本当の自分の感情はどこにあるんだろう。

許される人と許されない人がいること。
どうしても言葉をはっきり言えない人。吃音…どもったりしてしまう人。


いい人・いい子。おとなしい人・真面目な人。
あぁ、そうね。思うように言動を向けてくれてとても有難いですね。
適切な場で期待に応えてくれて。
そういう人はとても喜ばしく受け取られますね。

素直に自分の性格を出して、受け止めてくれる環境・人材があってそれは嬉しいですね。
あなたも、自分に素直になればいいのよ。

……別に知ったこっちゃないけど。(笑)

…となるのですよ。


大体、過去に人間関係でキズを負ってしまうと、それがトラウマになってしまって、次、何か行動を起こすときに相手の言動次第によってフラッシュバックが起きるのよ。
それをPTSDと呼ぶのかどうかは知らないし。過度な思い込み…過去の出来事によって植えつけられてしまった価値観の抑圧なのかもしれないけど。
そして現在を未来に向けて生きることも、過去が呼び起こした不安の被害妄想だとしても。

実際、それに類推する現実はすぐ近くにあるから。


誰も傷つけないことが優しさなんかじゃない、誰かを傷つけるおそれがあることが怖いだけ。
本当に嫌いな誰かでさえ、嫌われるのが怖いと思ったり。
だから取り繕う。


性格は変わるかどうか、じゃなくて、乗り切るための所作を覚えただけで、怯える心は何も変わらない。

「弱い私でいいのです。」
「自分が嫌いな自分で良い?」

>>192 負の感情を押さえつけてたら、正の感情が希薄になったよ。
…とあったけど、米欄にも似たようなのがあったけど、大体なにしててもつまんなくなるものね。

このブログの過去にも何かのエントリで書いたかもしれないけど、仮に自分を肯定してくれる事象があったとしても、それすらも疑わしく不安をもたらすものとも言えるから。

で、「じゃあ、そんなにつまんないなら何のために生きてるの?」って感じだけど、そんなもの無いんですよ。
いつでも●ねる手段が安心して選べるならそれを得たいくらいでね。

米欄41に、“そもそも溜め込まない人なんていないよね。人付き合いは嘘で成り立ってるのに。”
…ってあったけど、だからそうして自分自身が“嘘”で、“何も無いもの”に感じてしまうものなのよねぇ。

それがイヤで性格を変えたいと思っても、表層だけ変えてもなんともならない。
それこそ“気質”から、今の性格を構築することとなってしまった、後天的要因すらも意識して向き合って崩していかないと何もならない。
さもなくば、

強さを振りかざす、オマエが性格変えろよ。

とも思えるけど、それは決してならない。
肩肘張って強い言動を振りかざす人が、自分の性格を意識して変革するなどあるワケがない。
むしろ、
「オレ、物言いがキツイけど気にすんな!」
だろう?

そういう巡り合わせで出合ったものは受け容れて然るべしなのか。
感情は邪魔で、体裁のいい人間を作り出されていれば、あとは何もいらない。
最初から仕組まれたものなら、それが運命で受け容れるべきものなら、これほど つまらないものは無いから。



人間は不完全な生き物。迷惑を掛け合ういきもの。
不完全だからこそ、慢心しない。(日光東照宮が不完全なつくりになっているのも、完全なものはいずれ壊れるから とかあるそうだけど。)
けど、当人にとって100%自分が完璧な人(技術や小手先のことではない。人間的に。)だと慢心していると、人は人をコワす? 

だからこそ、性格は確定してはいけないもの? それは自己としても、他者に対する認識としても?

人間関係間の付き合い方が変わることによって……100%で接しないからこそ、健全な人間関係が構築できるものもありましょうから。

嘘の自分も、本当の自分。…というコトか?