藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“完璧の欲求。完璧の要求。 の2”

不図、思い出したこと。

山口県光市のあの事件の被害者の本村さんが、犯人の判決が確定したことについての会見で、完璧な受け答えをされてたのをなんとなく思い出した。

なかなか、窮屈な話だな、って思った。
なんというか。その応答全てが被害者として完璧であることが。そして見てるほうもそれに対し違和感を感じないほど真っ当であることに。



被害者は完璧な被害者でなければならず、加害者は完璧な加害者でなければならない。
単純に分けるなら、前者は“善”で、後者は“悪”でなければならない。




オウム真理教の幹部クラスの信者は高学歴で知的であったという。そして森達也氏の見解であるならば、彼らは『普通の人』という。
高学歴な人が、この国を憂いて行動を起こした動機は“善”だったかもしれないけど、起こしたことは“悪”。





人は多面的な存在である。そんなコトは誰もが百も承知で。
他者に触れることで表出する“自分”というものがたくさん存在する。その部分が・その全てが“自分”というもの。
そして相手が思うぶんだけ、想像上の“自分”というのも勝手に思われている。


自分が求める完璧な自分というものはどこにも無い。
誰かが求める、その“誰か”という“他者”にとっての完璧な“その人(自分)”というものは、これまでの過去に触れてきたものから予測されるものの中にしか無い。

だから誰かにとっての予測される完璧な“自分”から外れたものになると『(否定的な意味で)変わったね』となったり、信頼関係が崩れたりする。



“私”もあなたと同じで理解不能で複雑な“私”なのよ。
とね。


私は爆笑問題が好きなのですが、太田さんの文学的なセンスとか、タブーを破るとかの姿勢が好きで。
けど、爆笑問題の低迷期にバイトすらしてない(できない)人だったから、もし近くにいたらイラッとしてたかもしれない。(笑)

でも実際近くにいるワケじゃないし、テレビで見てるだけで十分だし。(や、会えたらいいなー、っていうのはありますよ。(笑)) その、レジが出来なかったエピソードとかも自嘲的に語られたりしてね。
(まぁ、爆笑問題に関しては、テレビで太田さんのほうが破天荒っぽい印象を強く持つけど、実際は田中氏のほうがちょっとオカシイというのもあるので、どう見られるかなんて一概には言えないものばかりですけどね。)


前回に書いたような、許されること・許されないこと、色々あると思う。
もう、許される範囲で、気を抜いて、曝け出していけばいいんじゃないかね。
(その“範囲”に囚われてもいけないんだけどね。)


否、というか曝け出すべきなんでしょうね。
おそらくフツーの生活の場では。
ただそれをこちらは“知らない”だけで。

ツイッターとかで本人が自らのプライベートなコトをどんどん出してしまっていて、他方からみれば気付かなかった…人間関係における一つの角度だけで付き合いしていたものが、ある側面をフトしたときに見てしまうことによって、『幻滅した』『こんな人だと思わなかった』などあるんでしょうね。


暴力的な言動に好感を持つ人もいれば、嫌悪を示す人もいたり。
ウジウジしてる人に共感を持つ人もいれば、嫌悪を示す人もいたり。
他角度からの本人の内情を知ってその人自身を批難したりとか。や、それを表面上の付き合いだけで良かったのに とか、そういうコトでも無いんだけどね。

だからそれが前述の『許せる範囲』に繋がるのかもしれないけど。

あぁ、分かりやすいのは恋愛から結婚になる場合とか?
一緒に生活をするようになって、見なくて良かったものが見えるようになるとか。(これ同棲だけでは見えないだろうねぇ。猫かぶるだろうから。(笑))


で、
暴力的だろうが、ウジウジしてる人だろうが、結婚生活だろうがで、そうやって明らかになる本人の性格・気質みたいなものを垂れ流しで出し続けることで…とくに緊密な関係だからこそ、その人間関係に甘えたり・怠惰になったりして、自分の性格を惜しみなく出し続けることを、『構ってちゃん』だと言うのかしら。
…ま、これも 受ける側の相手が『許せる範囲外』だと鬱陶しいだけだからそう蔑視してるだけだと思うけどね。『私には関係ないから』と。

自分のことを『分かって欲しい。分かって欲しい。』というのは誰もが持つことだからねぇ。

“私”のことを“こんな人間”だと分かりやすくカテゴライズして伝えたり、受け取ったりする一方で、 『“私”には“こんな側面”もあるんだよ』と、どんどん どんどん出していく。
……他角度からの様々な“側面”を見るだけで、当人も受け取るほうも“本質”が見えてないこともあるんだろうけどさ。


人間に対しての完璧というのは (無意識に)相手に期待する・要求してることとか。そんなもんでしょう。
理想の押し付けというか。
その要求を、自分自身に課したり、相手から応え続けることで、窮屈になったりするんでしょうし。

これ、自分が『許されてる』ことを知れば、もっと色んなことが『許せる』ようになるのかな。
それとも原罪意識とか、なにか根の深いところで『赦し』を乞うているのかな。