藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“「恥ずかしいと思ってることを書け」”

 

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言うても私はそんな若くもないですが。
17歳(ぉぃぉぃ)なので。
(このネタを言う時点で、あッ 察し… であってほしいですが。)


とはいえそんな恥ずかしいことを書く必要もないと思うんですけどね。
や、てゆーか、今回のエントリのタイトルが、自己啓発系のタイトルみたいで きめぇから、自分で書いておいてアレだけど うわぁ… って思ってしまって…。


だから書かなくていいです。
恥ずかしいことは恥ずかしいから出したくないでちゅもんね~。










……というか、人によって、何を『恥ずかしいこと』と思ってるのかは違いますけどね。
私は、失敗することが恥ずかしいとか、なにかしら指摘されるのが恥ずかしい ってのもありますし。
「恥の多い生涯を送ってきました…」ですから。
もともと対外的に誇れるものなど無いです。

「恥の多い生涯」か…。
本当、改めて捉えてみると、何を以って「恥」だと、
「恥ずべき人生だ」と、私は思ってるんでしょうね…。


単純に、年齢に伴った肩書きや収入が無い っていうことも私は『恥』だと『劣っている』と思ってますし、その、何か特別なことを成し得たワケではない というね。
(これはずっと言ってることですね。私はここに価値観がずっとあります。)

『努力が続かない』とかもそうですかね。『のめり込めない』というか。
人が見てるときにはちゃんとするように努めるけど、1人で、なにか外部から必要に迫られてるワケではない案件に対しては非常に怠惰だと思ってますし。
(誰しもかもしれませんが、私はこれを『責め』として自分に向ける要素としている部分はあります。)


『恥』……ねぇ…、

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『他人によって、自分の価値を下げられるような言動を受けること』か…。
恥ずかしい思いをさせられる というか。

だから『自分で恥だと思っていることを表出する』ことは『恥』ではないのかもしれないですね。

 

恥は社会的感情で、他人の前で自分がみっともなく見えるときに感じる感情だということだ。

 

「答えはイエスでもノーでもある。イエスなのは、恥はいつも人が自分にかけた期待を大幅に下回ったときに感じるものだからだ。この点で、恥は世界共通の感情だ。しかし、ノーでもある。恥の引き金となるのは環境や価値観だが、これは国や文化、歴史的背景によって異なるからだ。どんなときに恥じたり、恥じなかったりするのかは、社会環境によってかなり変化する」

うーん。

 

たとえば私は、『赤ちゃんになりたい』とか言うワケですよ。
自分で言うぶんには良いし、自分で認めてるぶんには。

だけど、それを勝手に知らない他人によって、侮蔑的に攻撃的にさらされて批難されるとなったら、私は『恥をかかされている』状態になるんでしょうかね。


『恥』は、自分でどう思ってるか だと思ってましたけど、
結構他人によるところも大きいですね。

考えてみれば、もうすぐ小学生になるというのにいつまでもオムツが取れない ってのも、「恥ずかしいことだよ」という、言ってみれば『外』から言われることですしね。



ま、他人に屈辱感を与えるような、価値観を押し付けたりアウティングするなどして追い詰めるような人は、その行為そのものが恥ずべき行為ですので。
それさえ他人に対してしなければ、

私が勝手に社会に対して『恥』だと思ってる、肩書きや収入の無さも些末なことかもしれませんがね。

あと、バブバブしたい って私が言ってることも恥ずべきこと、恥ずかちぃことかもしれまちぇんが、私をお世話してくれる人が、養ってくれる人がいれば、私を甘えさせてくれる人がいれば、甘やかしたい人へのメッセージにでもなるんじゃないですかね。

ほかにも、「私もほんとはバブバブしたいでちゅ~」って思ってる人が、願望を吐露しやすくなるメリットもあるかもしれないので、一部の価値観では恥だと思われても、吐露して共有することで恥ではなくなるのかもしれませんね。

“20210219”

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アクセス数が変わらず停滞していてとてもいい感じです。
一切気にすることなく好きなことが書けますね。

ほんとよくわかんないですよね。
テキトーなこと書いててもアクセス数の多いブログとかもあるでしょうし。

とはいえ、私そんなに数字上げたいか って言ったら微妙なんですけどね。

私が求めてるのはこんなよくわからない文字の羅列を書いてるだけで収入になればいいなー ってことくらいです。
なんていうんですかね、Yahoo!ニュースとかに上がってくる、実際の新聞社の記事とかでも、それほんとに取材して書いた原稿なんかぇ?? とか、
明らかに誤字脱字あって推敲してねぇだろ?? とか、
それただのバズってるツイートを記事にしただけやん?? とかありますからね。

(バズってるツイートは私も引用してるときはありますが…)

……そういう記事を書くだけでもおまんまになるんでしょ??
いいなー って思います☆



だから私もテキトーな文字の羅列を構築してるだけでお金が入ってくるようになってほしいですね。

まぁ、カネはさておき、

気兼ねなく書くことも結構大事ですからね。

アクセス数が少ないからこそ、周りに気を遣わずに書けますから。
フォロワー数が多いと大変みたいですし。
ましてこのブログは吐き出しもしてるので、ひたすら呪詛を練り出してるのであまり見てて気分のいいものではありませんからね。
鬱積だらけです。
なんの解決もしない。

ただただうまくいかなさを嘆き怨み、嫉妬する。
それだけです。

なのでこれからもそのような思いを胸に、ひたすらよくわからない文字の羅列を生み出していくだけです。

“はてな・お題「#この1年の変化 」”

お題「#この1年の変化

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なるほどですねー。
でも基本は変わらないんですよ。

ぼっちなので。

しょっちゅう会う友人とかいないし(もともと 年に数回とか、数か月に1回とか。)
(いやぁ、私みたいなめんどくさい人に声かけてくれる友人が存在してるだけで有難いですけどね)


仕事ねぇ…、はぁ…。


どこか出掛けるにしても、もともとピークタイムをズラしてますし。
というか、もともと集中した時間に動いていた人が 分散してしまったことによって、わざわざ人のいない時間を狙って動いていた私の時間に人が増えてしまうんですよ??

悪影響じゃん??

前にツイッターで、時間差通勤についてのことを見た気がするんですが、
もともと超過密の時間があって、他の閑散とした時間があったのに、
超過密が→過密になって、他の時間も過密になった みたいな。




で、


感染拡大防止に対する意識とか、私も出来る限りの対策はしてますし。
罹るのこわいので。

だから最近出掛けるのも、家から歩いて出掛けられる範囲が大半です。

出掛けた先で、鼻マスクとか顎マスクとか、ノーマスクおじさんとか見ることもありますが、マスク警察するのもアレなので、私の中で「うわぁ…」と思って近づかないだけですし。

マスク必須な世界になりましたけど、私は花粉症持ちなので、
ましてこれからの季節、5月くらいまでは確実に必須なので、まぁ…これも…。

消毒もねぇ~…、
消毒も出掛けた先ではやりますけど、この寒い時期… やっと少しはあったかくなってきましたけど、私 肌が弱いので手が荒れるんですよ。あかぎれするんですよ 普通に。
消毒しますけどね…。


そんな感じで基本的には変わらないです。

しいて言うなら、ふと遠方に出掛けたいと思っても、遠出するのがこわくて躊躇う ってだけですが、
とはいえ金銭的には収入が難航しておりますので、遠方に行くことも何れにしても無いことですが。

四の五の言わずにお金が欲しいです。

“どうせダメ って思うより、きっと大丈夫 って私を応援する。 ”

“どうせダメ って思うより、きっと大丈夫 って私を応援する。 ”

って思いついた というか、思い出したから残しておく。


関連して、前に 幡野さんの本を読んでて、

誰かに対して、「どうせ無理」って言うよりも「叶うといいね!」って応援した方がいい っての読んだ気がした。

(正式な文脈忘れた。)



なので、私は私に対しても「どうせ」って思わずに、肯定的な声かけを私にしていきたいな と。

大丈夫だよ!私!

いつも私は私に自己否定ばかり浴びせてゴメンね!

この状態、きっとよくなるからね!

“『怒る瞬発力』など。”

 

 

 

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一時期、『怒らない』ことを肯定した本を読んでたことがあって、(上記リンク先の本ではないです)それは、自分が怒りにくいからこそ、それを肯定したくて読んでたような気がするんですけど。

所謂、なんかイヤなことされたときに、すぐに「それが不快です!」と言えるか って話でもあると思うんですが、

 

 

不快なことされたときに、それこそ失礼なことされたときに、それをすぐに言い返せないんですよ。
突然キレられると脳がバグる みたいなことをツイッターで誰かが書いてたと思うけど、一瞬「えッ」ってなってしまって、そのときは流してしまったあと、あとから怒りがジワジワ湧いてきて、「ああ言い返せば良かった」とか思うものです。

……で、それが言い返せないし、コミュ障ゆえかゴニョゴニョ滑舌悪く話してしまう性格ゆえか、積もり積もって『呪い』になってしまうのですが。


思ったことを言える人すごいなー って思います。

別にそれは怒りの感情に限らすなんですけど、
どうしても「言っても無駄だ」みたいな気持ちの方が強いし、
折角言う機会があっても、
「もっとあのこと話しておけば良かった」
「もっと ああいう言い方すれば良かった」
とか、発言の推敲できないんですよね。
1回発言のチャンスを逃してしまったらもうそれっきりで、言ったにしろ言わなかったにしろ、機会を逃してしまったらもう言えなくなってしまう。
言われるほうの、話の聞く側のタイミングとかも考えてしまって、「今 言ったところで…」ってなってしまうし、

重要な話をしたいときとかもあるし、
話かけにくい人とかはその人の機嫌がどうなのか めちゃくちゃ窺うし。
(とはいえ、話かけにくい雰囲気を周りに与えてる人 ってのもどうなんだ とは思いますが。)

一度、私に対して粗雑で無礼な物言いをしてきた人は、どんな言い方をしてきたかも含めて、私は “覚えている” 人なので、
その人がそのときどんな都合を抱えていたかは知らないけど、その抱えていた都合を差し置いても、「失礼な態度を採る人なんだ」と私は認識するので、その人に話しかけることをもう一切しなかったりね。

瞬発的に怒る人 みたいな感じで、
よくもまぁ、そんな相手の事情を無視して失礼な物言いを向けられますね? って思います。
私は、私に対して失礼な物言いしてきた人に、直接言い返すことすらも難儀だというのにね。

(ま、それは私が言ったことよりも強く言い返されて、結局向こうの言い分で帰結してしまって私の意思が殺された経験が重なったからですが。)
(それが『呪詛』の積み重ねになってますけどね。)


すぐに言葉を返す刀で発露できる人、すごいなー って思います。
その言葉の使い方の良し悪しは 置いておいて ですけど。

“「元のように戻ってほしい」”

「元のように戻ってほしい」


この、コロナ禍の状況で、それ以前の状態に戻ってほしい
…ということについて、前日記事で書いてたけど、
この状況に限らず、戻ってほしい ことなんて結構あるんですけどね。

お金は勿論ですけどね。
もっと収入のある仕事だったら とか、あのとき大きなお金を使わなければ とか、

個人的には健康もね、

 

 

不健康な生活をしてるけど、自分が不健康な状態になったら、それ、ものすごくイヤなんですよね。
私、普通に風邪をひくだけで気分が沈むもの。
こんな状態で重篤な病気になったら、それこそあれに罹ったら、ましてそれを誰かに感染(うつ)したら、メンタルがめちゃくちゃ落ちると思うのよ。

私が「死ぬ」「死ぬ」言うのは、「痛い」とか「苦しい」とかから逃げたいんですよ。
痛いのも苦しいのもイヤなんですよ。
助からないんなら死んだほうがマシやん って思っちゃって。

なんだかよくわからない不定愁訴とかもどうにかキレイさっぱりになってほしいですもの。


自分だけじゃなくて、ウチの親が、足とか腰とか痛そうな感じ(つか、この前 初詣に一緒に行ったけど歩くの大変そうだったし)を見るのもイヤやもん。
治るなら治ってほしいもん。
元に戻ってほしいもん。


出来るだけ、ダラダラまったり生活してほしいんですよ。

それは私もダラダラ生活したいですけど。

それが可能な、健康と生活を支える金銭がほしい。…そう思います。





『元』というのがいつの状態のことを言いたいのか、というと、
しんどいときとか、苦しいときが無い状態の、そんな生活がしたい。

『痛み』も『苦しみ』も『我慢』も続かない生活がしたいですね。
ま、私だけが思ってることじゃないけどさ、
あんまり『悲しい』ことがない暮らしがしたいんですよ。
刺激的な『楽しさ』はなくとも、日々穏やかに過ごすことが出来れば、それで良いんですよ。