>>「なんで宿題をやってないの!?」と聞いたとき、
『宿題をやってない理由』を聞きたいのか、『いいから宿題をやれこのボケ!』と言っているのか。
「なんで宿題やってないの!?」と聞かれたほうも、『宿題をやってない理由』を問われているのか、理由を答えた方がいいのか と思うのと、
『宿題をやってないことを責められている』ように感じてしまう ってのと。
現代社会では基本的にスカッとする事は犯罪ですからね。嫌いな奴を殴るとか。というか人間がみんな自分がスカッとすることをしてたら集団が成り立たないからそれを規制するために法律が生まれたんだろうな…
— ドンガメ六号 (@dongame6) August 17, 2019
対人間での諍いがあったときに、それはお互いがお互いを知りたいのか、分かり合いたいのか、共感したいのか、齟齬が生じてモヤモヤしてる気持ちを一方的にぶつけたいのか、その上でどのような関係結果を築いていきたいのか。
それとも関係を御破算にしてもいいと思った上でのことなのか。
そうしたときに自分が他者に差し出す言語はどのようなもので在りたいと示すのか。
ヤクザ者や詐話師のインチキ対話術は、「耐性」を持っている人間から見れば一発で見破れる。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) August 16, 2019
「耐性」は、半端なツッパリや虚言癖の根性曲がりが机を並べている地域の小中学校くぐりぬければ、イヤでも身についている。
エリートな中高一貫校に進んだ組の生徒にはちょっとむずかしいかもしれない。
学校教育の中で知的な訓練を積んだ「頭の良い」人は、自分の意見を論理的に主張する高い能力を持っている一方で、「他人の話に耳を傾ける最低限のマナー(というか習性)」を身に着けている。それゆえ主張する力だけが滅法強くて、相手の話にまるで耳を傾けないヤー公とやり合うと、ほぼ全く勝てない。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) August 16, 2019
対話相手の話を言葉の内容でなく、「声のトーン」で判断している人は少なくない。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) August 16, 2019
「この人がこんなに一生懸命喋っているのだから本当なのだろう」
「大きな声で断言しているから信じられそうだ」
てな調子で、「空気」を読むことだけを学んで来た人たちは、話の中身を聴いていない。
自分が気持ちを言えば、ぶつければそれでいいのか、
そもそも相手の話を聞きたいのか、
相手の気持ちを訊ければいいのか、
相手の気持ちが自分にとって納得のいくものでないといけないのか、
納得のいかない理由であったときに完全にその相手を断罪してもいいものか。喝破してもいいものか。
言語に拘わらず、なにかしら表現を 表出するということは、表現(あらゆる言動)を受けとめることは、人の心になにかしらの機微をもたらすものだと思うのだけれど、
その機微をほどくことなく大雑把なカウンターばかりを採用しているだけでも良いのだろうか と。
心に刻まれた、微かなものを拾いあげることは出来るのだろうか。
タイトルは吉本隆明の著作からのパクリです。