藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“『ETV特集 辺見庸 ―しのびよる破局の中で―』 を見た。”

2009.02.01.O.A.

正直私は辺見庸さんの本は読んだコトは無いんですね。

ですけど、新聞に記載されてるコラム『水の透視画法』で、昨年の秋葉原事件に関しての記述があり、それを読んで以降コラムを気にするようになりました。

今回のETV特集でも、秋葉原事件とともに最近の社会・経済についての考えを仰っておられました。

簡単に表してしまうと、よろしくないのかもしれませんが、

現状の感覚に慣れるなということ。疑うということ。……でしょうか。

カミュの『ペスト』を引用し、次々とペストで死んでいく状態に慣れていってしまうこと。

『絶望に慣れることは 絶望そのものよりもさらに悪いのだ』

と。

毎年3万人の自殺者なんて言われてるけど、10年続いてる…計30万人が自殺しているということに気付きにくい。

『正気と狂気が重層化してる。 〜 心のどこかで自分を笑っちゃってる。「なーんちゃって」と。』

『失業者(飢餓)の人。と、大食い競争の番組。倫理的にどうかではなく、共存してる社会。これはどういったことか。』

『無意識の荒(すさ)み。これを摘出して見たほうがいい』

次の章。これは吉本隆明氏の考えにも相通じるものがあると思ったのですが。

『時間と空間を感じること。時計化された時間じゃ――…或いはTV化された時間じゃなくて』

『即時性…―――特派員時代は検閲で延着がよくあった。今は映像でもすぐ届く。(ただその即時性というものが)生体として 受け入れられなくなるんじゃないかと。』

吉本氏の考えの中にも、『技術の発達と、人間的な成長はイコールでは無い』といった趣旨のものがあったと思う。

『即時的にメッセージが出て、受け取れるけど。それはヤバい。便利だけど。』

『反復して、思索して、思いを深めていくというのが人間的な行為』

これも吉本氏の『沈黙』に繋がりますね。

コミュニケーションとしての言語ではない『非言語』。自分に伝わる、自分の内臓に伝わる言葉があれば良い。――というのになるのでしょうか。

また次。ラスト3章め。

教師の方々を対象に行った講演会での模様を交えながら。

以前辺見氏が足立区の荒れてる中学校に講演に行き、中学生が『さも話を聞いてないような素振り』をしているけど、辺見氏が話を終えたあと、中学生から質問が挙がったことで、

『インタラクト(他の域に対し 相互に作用すること)。言語域(言語圏)を時々変えてみる。直接話したりすると、別の言語域に生きているのがわかる』 とか。

『派遣切りもするけど救いもする。――虐げられた人に救いの手を差しのべるとはどういうことか。“ペスト”の中でペストに立ち向かうには“誠実さ”とあったけど、この時代に 自覚的な個であるとはどういうことか。』

また前章のおわりに

『迂遠な時間と空間を お金に置き換えている』とあったのですが この章の後半でも、

『人間の基本的な徳目が商品広告化されてしまった。穏やかとか、癒しとか、優しさも愛も。』

『切断された人間の内面を打破する必要がある。感性だけは失ったら終わりだ。』

『勝者の、成功者の物語を今まで書いてきた。――派手な額縁を付けて。

不都合な物語を もっと抉るものを表現してもいいのではないか。敗者の物語を前面に出してみること。堕ちているのに堕ちていないとどこまで言い張るのか。』

大体、“『』”内に番組での辺見氏の発言をまとめたつもりですが、いかんせんメモがしっかりしてない点もあるかと思われます。1章のメモはもっとあったのですがちょっと手元に無い……。御了承を。

現状のおかしな点を考えるにあたり、もっと色々本を、別の作家さんのも読んでみて、共通する点があればまたそこを掘り下げられたらと思います。

あと、番組の本筋とは違うのですが、辺見氏がリハビリにと外を歩いたりしてる画があって、その休憩をされてる時に、

「いくら練習しても上手にはならないけど、練習してないと歩けなくなる。」

というのが個人的に響きました。

吉本氏の「10年続けたら一人前」じゃないですが、物事を“続ける”前向きな気持ちとして心に置いておきたいと思う。