藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“We don't know anyone about us”

mooth1006u3.hatenablog.com

 

 

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まさに、そんな合理的かなぁ…? って考えちゃうんですけどね。

 

“知らない から 嫌い” ってのはあると思いますよ。えぇ。

で、そもそも “知りたい” ですか?
先に “反応” して、“嫌悪” したりしませんかね。

事実を誤解・曲解して殴ってくる人もいますからねぇ…。
とある理解しがたい言動を見て、なんでこの人はこんなことを言うのか / するのか としたときに、自分の価値観を差し置いて理解できますかね…。

 

理解しがたい言動、出来事に触れたときに、反応and反応で、何故反応してしまうのかも問わずにマウント決めたいだけなんじゃないですか。

 

オウム真理教絡みで、森達也さんの文章にもあったけど、
あれらを『理解できない殺人集団』だと切り捨てるのは簡単だけど、そっち側にいってしまった人と そうならなかった人 ってちゃんと考えられるのか。


秋葉原無差別のあの人とか、相模原障害者施設のあの人とか、そりゃ凄惨なことだから責められるべき罪はあるのだけど、結果だけ見てその人を完全に批難出来るものでもない部分もありますよね。
“役立たず” に対しての考え方とかね。殆どの人が持ってるものですよね。

 


ま、当事者でないものに、わざわざ当事者意識を向ける必要も無いのかもしれませんけど、当事者として何か関わったワケでもないのに、なにか外部事案に わ ざ わ ざ  “反応” するということは、何か思うことがあるからだと言えるでしょうし。

 

 

なんで嫌いなのか調べたりしますかねぇ…。
そもそも先に “嫌い” が反応として出てきたときに、その事象に対しての “反応” するフィルターが既に生まれてしまってると思うので、その関連のなすことは “嫌い” を通して見てしまったりしませんか?

『こういう言動をする人はこれだから〇〇だから~』
ってのも決めつけですよね。

 

わざわざ関心を持って “嫌う” んですから。“興味” はあると思うんですよ。
“知りたい” という動機に繋がるような。
でもその 知りたい動機が、嫌う為にあら探しをしてるようになってないですかね。

 

出来事を受けて反応する思考体系がもう頭の中で順序立てて決めつけられてしまってまる気がするんですよ。

これを言った → これを言うような人はクソだ → だから嫌い。叩く。

って。自動的に。

その『→』部分を一回切断して、何故そういう考えに至るのか、それこそ “分析(分解して解析する)” してみたら変わるかもしれませんけどね。

 

 

ま、ほとんどの『好き』も『嫌い』も実際んところは “なんとなく” だったりするんでしょうし。“なんとなく” で全然良いんですけど。

わざわざ嫌悪感情むき出しにしてくるようなのは即ブロで もういいや って感じです。

感情のゴタゴタしたものに対しての扱い方も人によって違いますから。
その違いと 客観的にどう捉えられがちか …なんていうのはなかなか見えませんし。

なんとなく嫌いな人はなんとなく嫌っていればいいです。


ちなみに私は “なんとなく苦手” なものに対しては距離を置くだけです。
実際に私が嫌うのは 私に対して的外れな “攻撃” をしてきた人だけです。

 

 

本当に他人を理解したいと思うのかな。私は。私たちは。
分類の箱に閉じ込めることなく、自分が理解し易くする為に解釈材料として使うだけに留まり、

理解できない “部分" があったとしても。