藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“sink”

自らの心を開くより先に相手の、誰かの動きの方が気になってしまうんですよね。

そんで “私” をちょっと削っていく。

 

『価値観』とか『普通』とかそれぞれにお抱えのものがありますものでね、推測に過ぎないけどそういうものをおおよそ把握して、あぁ… って思うんですよ。

 

諦念めいたものですかね。

 

そうだけど私は私で『価値観』を持ってるんすよ。不可侵の。

それはそれで守りたい部分でもあって。ま、自己保身的だという部分もあるけどな、と思う一方で そこを謙遜してどうするんだとか、たまにはそこを曝け出して汚されてみろとか、それが大事なら守り抜け って視点も色々ありきで。

 

 

だから “断絶” するってコトも一つの手段ではあると思うんすよ。

わざわざ散弾飛び交う中 地雷原を走り抜ける必要は無いんでね。

 

 

 

休めるところで沈んでおきたいですね。

「死にたい」「死にたい」言いたいだけ言ってみたりしながら。

「死ね」「死ね」言いたいだけ言ってみたりしながら。

別にね、生きやすいかどうかっつったら微妙すよ。マジで。

「ここまで真摯に向き合ってもこれか??」みたいな肩透かし感も否めないから。

 

 

相変わらずメンタル落ちることもあるしさ。

だからって私が悪いとか 誰かが悪いとか、何かを責めたら済むかというとそーゆー話でも無ぇんすよ。

と、言いながら他人を慮るコトで自分の気持ちを遠慮すると元の木阿弥。

 

 

 

 

ま、いいんすけど。(諦観)

『向き合わない』ってのも手だと思うし、『向き合ってくれる』人、とき、もの、環境とか、そーゆーのに委ねるのも手だとも思うんでね。

そう、委ねる。

その、肯定的に向き合って、委ねて、受け容れてくれるような、そういう場所に沈んでみる、それを思い出す ってのも一つとして。

 

 

(表現が抽象的ダナー)

("沈む" ことを一転させて肯定的に捉えてみたオチ)

 

 

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(本エントリと直接関連するワケではないけどなんとなく)

(最近また たまに9GOATS BLACK OUTを聞くので)