藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“駄文 16 (非凡なる生存の選別。)”

最近、吉田豪さんをよく見てて、それで改めてネットに上がってたものを読んだり。

あの…ムツゴロウ(畑 正憲)さんへインタビューしたヤツとか…。(笑)

で、吉田豪さんのインタビューの極意として、あらかじめ相手について調べ尽くしておられるのは前提として(マニアックなアイドルとかねぇ〜。Negiccoとかテレビでちょくちょく見るよね。この前ニュースのローカル枠で紹介されてたし。)
…それもさることながら、『肯定すること』が重要とか。

や、だって、普 通 は 、ムツゴロウさんのそんな話聞いたら、疑問とか反論とかになりかねないものもあるのに、まぁ…事前準備してるからってのも大きいんでしょうが、「ですよね〜」って同調したり、「そういえば○○ってこともありましたもんねー」って乗っかったりされてるし。
それが共通認識の常識であるかのように。


普通であることに憧れや、嫌悪を抱きながらも“普通”に悩まされる。
けど、普通の人生ではただ食いつぶされて終わるだけ。何者にもなれずに。



何か、誰も思いついたもののないものを。早く。社会に影響を与えるものを。
…だなんてね。

先日の、みうらじゅんさんとリリー・フランキーさんの本を読んだ中に書いてあったけど、人生破綻しまくればすれはそれで偉人になれる とかあったような。
たしかに、昔の文豪とか…海外の作曲家とか何でもいいけど、私生活がメチャクチャだというのは聞くもので。

結果として……結果というか、後世の時代になって有名になったアーティストでも文豪でも、その当時の本人の近くに居た人は結構な迷惑を蒙(こうむ)っていたとも聞きますから。
で、その迷惑をかけているコトに自覚的になってしまうと、行動が萎縮してしまって、“普通”という縮こまったものになってしまう。

普通ではない、標準点よりも高い位置に居たいとは思うけど、人生が破綻する可能性を持つものには憧れられない。
それは苦しいから。怖いから。
比較の上での孤独になることが。特に 心が孤独になってしまうことが。

いつだって見捨てられるコトばかりを恐れてしまうから。

あぁ、羨ましい。破綻できることが。
誰かに迷惑をかけることが。誰かの迷惑を考えず、人を巻き込むことが出来ることが。
…相手がどう思うかばかりを考えてしまって、結局なにも動けずにいるままなのだから。

どれだけ道を外しても、誰かに肯定されたい。それだけを願う。
ほんとうは、自分の道を、自分が信じて突き進めていられたらいいのに、自分に自分の意思が・意志というものが無いから、何を信じて貫いていけばいいかわからない。

価値観が他人にあるから。他人の価値観に無意識に依存してしまうから、自分の道めない。

たとえば、
好きなことをしていられるなら、結婚しなくてもいい。子どもを持たなくてもいい。…そう信じてやっていく!と、気合を入れても。
いざ、誰かが結婚や、子どもを産み育てているのを見聞きすると、自分もしなくてはいけないのかと、無意識に焦燥感に駆られたりしてね。
…そんで、『いやいや、自分にはやるべきコトがあるから』と言い聞かせる。
…わざわざそう言い聞かせているコト自体が、意識してしまってるコトを 必死で振り払おうとしている意志だというのに。

年齢を意識すること、世間体を意識すること。
無意識に、その 社会の価値観とでも言いましょうか。吉本隆明的に言うなればそれが共同幻想とでも言うのでしょうか。
…そんなものに捉われているのですよ。

自分がどう思うのか の、前に、
自分はどう思われたいか が、先に出てきてしまう。それは誰かの為を思うとかではなく。対人間の中にある 自分というものを保つために、他者と合わせた自分であろうとする。
誰かに肯定されることを望む前に、自分を肯定することもなかなか出来ず。

起こること、起こすこと、全てに肯定することができない、他人の肯定に寄り掛かってるからこそ、他責で考えてしまうとか。

そう。本来の“自分”というものには何もないのだ。
何かになるとか。何者になるだとか言う前に、そもそも何も“無い”。
“無”なのだ。


それでも自分を生きるということは何だっていうだろうか。

電撃オンラインで連載中の水曜どうでしょうD陣の連載第11回で、うれしーが、『ただ生きていくこと』という何処か達観されてるようなコメントを出されておられましたが。

『生き物は、生きてさえいれば良いのです。何の役に立たなくても。誰からもみかえりみられなくても。生きていれば良いのです。なぜなら、それが生命の本来の姿だからです。』
(上記リンク先、うれしーのコメントより一部抜粋。)

ただ、生きるのにはカネがかかるのよ。
競争の中で、生存戦略に勝ち抜いて、選ばれし者だけが得るものがある。それが最終的に命だったりしてしまうコトもあるのは否めないのでは? と思う。

強固な地盤。利権。…そういうものを得ているものが最終的に生き残っていく。
それが生存の欲望。
我を通し、貫いていくものだけが生き残っていく。

ただ在るだけで良いものなのだろうか。

何も 使 え な い 者 は、見下すためだけに在るというんだろうか。
あぁ、あんな欠陥じゃなくて良かった。と?



そんな中、ETV(NHK教育テレビ)で、昨日、梅棹忠夫さんの特集を見た。twitterで内容一部書きましたけど。
結局、そういうビジネス的思考が、生存することへの よこしまな考えになってしまうんだろうか。
使い捨ての人間を生み出して。生き残る人と犠牲になる人を分けて。
…誰が使い捨てるのか。誰がそれを分けるのか。

命の価値は、どれだけの経済効果を生み出すか にかかってるというものなのか。


ところで、(スティーブン・)ホーキング博士は、難病を患っていながらも物理学の権威でおられるが。
これは発病前より理論物理学を専攻しておられたから…何か興味のある分野にかける熱量の表出を、損なうことなく在り続けておられたからこそ、その意味があるんだろうか。


ただ在ること。ただやれることをやること。
やれることが ある というコト。
特別な何かが出来ること。
また逆に、
その、やること・やれること というのは“普通”じゃなきゃダメ?
『“普通”はこれができなきゃダメだ!』とかあるんでしょうか。

生きる上で、
経済活動を営むことが出来ないとダメ。
家事が出来ないとダメ。
…社会で役に立つことが出来ないとダメ。
四肢が正常に機能しなければダメ。
脳が働いてないとダメ。
心臓が働いてないとダメ。
………どこから生存の線引きをしていくんだろうか。

在ること、意思を持つこと、意味を考えること。
意識すること。

何を意識するのか。
他人を意識するのか、自分を意識するのか。

自覚を意識するのか。