藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“『しあわせのパン』を観た。”

どーも 奥さん
知ってるでしょう?

大泉洋でぇございます。

おい


食わねぇか




……………。(笑)

(や、別にただ連想しただけですけどね。(^^;  内容は無関係です。)



映画、『しあわせのパン』を観てきました。

2012 04 16 『しあわせのパン』劇場前


もともと公開前に、日テレの『Oha4』という番組で、この作品についてのインタビューを主演の原田知世さんと、大泉さんが受けてるのを見て、なんか気になって是非観たいと思ってました。
“大泉さんだから観たい”っていうのは当然ありますし。(笑)

ところが北海道がメインであまり全国でもスクリーン数は少なく。なかなか観れる機会がなかったのですが、やっと最近になって地元でも観れることとなり映画館に足を運んだ次第でございます。

朝から見に行きまして、お客さんは十数人くらい。ご婦人の方々が殆どでした。

(以下、ややネタバレを含みます。)








夏のお客様、秋のお客様、冬のお客様をそれぞれゲストに迎えたオムニバスのようなストーリー運びで。
正直、主演のお2人と余貴美子さん平岡祐太さん以外はあまり存じ上げない役者さんばかりでしたが、逆にそれが役者さん自体への先入観なく観れたのかなぁ。と。

作品の中で 大泉さんは本来めちゃくちゃ喋るタイプの人なのに、この映画ではあまり喋らない。「はい」「良いです」など。それ故に、視線・目配せや、仕草で芝居をされているのですが、それがすごく優しさに満ちている。
それは原田知世さんもそうですけどね。
何回もあるコーヒーを淹れるシーンでの“目”とかね。そりゃあ郵便屋さんも『キレイですね』と言いたくなりますよ。

たとえばその、あまり言葉を交わさない、のも ただそういう雰囲気重視というコトに限らず、『不用意に余計な言葉をかけない』という、安易に優しい言葉をかけないことを示している というか。
深追いしすぎない、というか。

秋の回で、子どもと父親の関係の溝に あれこれ口出ししたりせず、ただ黙って聞いてたり、フとしたタイミングで料理を置いたりなど。自然にその関係が修復されるのを促すような。
言葉じゃなく、行為に優しさが溢れてましたね。

関係や、お客さんの内情に足を踏み入れる、ってことに関しては、冬の回に関して『これは大変かも』というところでしっかりと止めたりとか。でもそんなときも お客さんの口から話し出すまで詳細を聞こうとしなかったり。

夏の回では若者がメインだからか一番感情移入しやすかった。
時生くんのセリフの『線路の切り替える』話とか。香織のみっともなさ、ガムシャラな感じとか。
弱さを出せるのは強いことですよ。
で、ここでもとくに……夜、外で騒がしかっただろうに、水縞夫妻は登場してない(時生くんだけが騒がしいと思って外を見るシーンがあった)ので。それも自然に任せてたのでしょうか。

いい雰囲気を持った作品ですけど、ただの雰囲気だけを楽しむような自己満足に終始するんじゃなくて、その雰囲気を提供している側の空気も、人間的に強い・優しい人ではなくて、弱さや不安を持ってるからこそなんでしょうね。
(りえさんの冒頭モノローグとか、『つくって笑うこと』とか。)


この舞台となってるカフェ・マーニ。
ただ、優しい“場”を提供する、そんなカフェなんでしょうね。
印象的だったのが夏の回での水縞くんのセリフで香織が店を出ようとしたときに、
『いつでもいらしてください。ウチはここにありますから。』
……というような言葉があったこと。(違ってたらスマソ)

“家”とは違うものなんだけど、“帰れる場所がある”、“受け容れてくれる場所がある”というのは それ自体がすごく生きてく支えになるものだな って思いました。


夏の回のときに、パンを分けて食べてる水縞夫妻の様子をじっと見つめてる香織のシーンがあったけど、“カンパニオ(companio)” というのは “パンを分け合うひとたち”、“家族”、“仲間”とかいう意味を言うそうで。食べ物を分け合う っていうのはホント見ててほっこりするものですね。あの見つめててただセリフの無いシーンとか感情が解りますもの。

映画のキャッチコピーの“わけあうたびに わかりあえる 気がする”って、まさに。ですね。

パンフレット↓

2012 04 16 『しあわせのパン』パンフレット