藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“死を選ぶ権利。”

[リンク]:安楽死法 ‐ 死を選ぶ権利 --- 駒沢 丈治(アゴラ編集部)

生が「義務」ではなく「権利」であるならは、人には生きる権利と共に「死を選ぶ権利」があるはずだ。生きる権利を認めながら死を選ぶ権利を認めない社会というのは、一見人道的に見えるが、実は非人道的だと思う。死を望む人に生を強要する権利は、誰にもない。

もちろん安楽死など必要がない社会……自ら死を望む人などいない社会が望ましいのは当然だが、残念ながら現実は違う。いまそこに死を望んでいる人たちが存在し、それによって社会に混乱や負担がもたらされるのであれば、やはり現実的な対応が必要なのではないか。(リンク先記事より末部抜粋)

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生きること って苦痛だから。この世は地獄だから。そこから逃れられるのなら、選択の手段として持っていたいですよ。

前、『それでも人生にイエスと言う。』を読んだときに思ったことでもあるのですが。

[ブログ内リンク]:“【V・E・フランクル】 : 『それでも人生にイエスと言う』読了。と邂逅。”

経済的都合がつく場合や、要介護者を看護する人など、その環境、人間の精神的余裕などがある場合なら問題ないのでしょうが、なんというか、無 理 し て ま で 生きる必要があるのか、というコトである。

『生かされている』という言葉があまり好きではないと前にも書きましたけど、誰が生かしてくれてるの?無様な有り体を晒し続けてもなお。と。
自分がどうしようもない病気になったとき、年老いたとき、金銭的な負担を身内に強いて、精神的疲労を看護者が背負い。そうまでして、まさに字面の如く 面倒をおかけする ことに、看護されている“私”は幸福なのだろうか。
自分の家族が、自分のどうしようもない病気などのために、自分の時間を削って私に尽くしてくれるなど、非常にもったいないのでは? とも思うのです。

迷惑をかけあうのが人間同士でしょう?
…て、何を仰いますか、迷惑千万。なにごとも迷惑をかけられようものなら御免被る。そんなものでしょう?

自殺するにしても、マグロ回収する人のことを考えろよ。と。
山手線の本数減らしやがって。と。
ワーカホリックな方々が日常を阻害されることに対して憤っておられるもの。

だから、私が重篤になった場合や、私が真に生きる意味を・理由を見失った際、安楽死の手段と権利を抱くことが出来るのなら私はそれを選ぶかもしれない。

それすらも家族に“迷惑をかける”? 医療従事者に“迷惑をかける”? お国に“迷惑をかける”?
自分が死を選ぶことすらも、誰かに迷惑をかけることと 疎まれるとするならば、せめて法制化して認識だけは改めて、『“迷惑と思わない”で貰いたい』。
……自分の命を自ら絶つときには、そこまで“配慮”しなくてはいけない?

そう、世の中に生きる全ての人間が、生産活動や消費活動を伴わない存在ならば、誰にも肯定的な影響を与える存在になれないのだから。と。



しかし、これは私が安楽死、死を選ぶ立場の場合。だ。

家族など、私の大切な身内がこのようなことを考えていたら、全力で阻止する。と思う。
重篤な病気になったとしても、できる限り看護はしたい。と思う。
(『と思う』としたのは、さきほど上記に前述した 経済的な都合、精神的なキャパ によるため。)

なぜなら大切な人に『先に死んでほしく無いから』である。
それだけなの。
大切な人は、たとえ経済活動が出来なかろうが、たとえ手足が動かず、呼吸もままない状態であろうが、ただ生きててほしい と、そう願わずにいられないの。
大切な人の鼓動がこの世に小さくとも響いてる限り、それが一つの生きがいでもあるから。
これは誇張でもなんでもなく。そう願う。
どんな辛いことがあろうとも、どれだけの費用がかかろうとも。生きてくために尽くすと思う。



ただ、精神的に参ることもあるハズで。
ずっと健全な精神状態で見守り続けていけるかというと、そこは浮き沈みすると思う。
また、時間を経れば、経済的に困窮していくこともありましょう。

だから乱暴な言い方をすれば、
『“大切な人に先に死なれるような絶望(拡大解釈の比喩含む)”にぶち当たるくらいなら、さっさと私が死にたい。』
という考えは否定できない。
……これは社会的にたまに見る、心中行為にも通ずるのでしょうか。

誰かを送る立場になるくらいなら。
私を送ってくれなくても結構ですから。先に旅立たせて下さい。とでも言うような。


…ふと、思ったけど、この記述、“安楽死”と“(自ら)死を選ぶ権利”って別問題だな。
法制化についても、自殺を認めるかどうか というコトと、その手段を確立し・機能として活かすことが出来るか(どう“安楽死”を行使するか…という点。)は別問題で。

自殺を認めるか について、『○○さんは安楽死が行使されました』とか話さないにしても井戸端的に広がったときの受け止め方がとても重いものになるでしょうし。
安楽死の施設(?)とかも誰が用意して どう行使するのか。その際、自ら安楽死を行使し、事前に区役所や市役所に許可や届出を出したとしても、安楽死施設を作った人が咎められるようなことになってはならない。“迷惑をかけて”はならない。
(“安楽死”が法制化されないのは、自死に対しての解釈はもとより、法制化することによる糾弾を避けるためとの不安からの逃げではないか とも取れなくもない。)

これらは、人間の心情の根底にある 倫理観に触れるものになってしまうのだろうか。
自殺は なんだかよくわからないけれど、とてもよくないことだ という価値観が備わってしまってる。という問題が。
しかも、別にこれは 自分以外の誰かが自死を選ぶと なんかよくない感じ を思うかもしれないけれど、当人としての選択肢はアリとしてカードを持っているもので…。


そもそも、何故 『自殺はよくないことだ』と い う 価 値 観 が あ る の か という点から考えていかないといけないと思う。
毎年3万人の自殺者を輩出(敢えてこの字で)しているのに、何もしていないのだから。



余談。
先日、さいたまで60の夫婦と30代の息子の一家3人が餓死してた事件がありましたけど、

産経新聞 2月20日(月)21時42分配信

 20日午後1時20分ごろ、さいたま市北区吉野町のアパートの一室で、男性2人と女性1人の遺体があるのを管理会社の職員が発見、警察に通報した。

 埼玉県警大宮署の調べによると、部屋には60代くらいの夫婦と30代くらいの息子が住んでいたが、数カ月前から家賃を滞納していたため、管理会社の職員がこの日、アパートを訪問。応答がなかったことから玄関の鍵を開けて室内に入ったところ、6畳間の布団の上に男女2人、4畳半の布団の上に男性1人の遺体があった。遺体はやせており、目立った外傷はなく、室内に争った形跡もなかったという。

 大宮署は、居住者の3人と連絡が取れないことから、遺体はこの3人とみて身元確認を急ぐとともに、餓死した可能性もあるとみて詳しい死因を調べる。(以上、ニュース引用)


この家族が、心中行為をしていたら…自殺をしていたら、何か感じるものは異なったのでしょうか。
別のニュースでは、ご主人が腰を悪くされ、働けなかったとか、役所に生活保護も申請されていなかったとありましたし。
餓死は、死を“選んだ”末のことなのでしょうか。