藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“一言に十年と言ってもその中身の違い。と、中身以外の部分。”

[外部リンク] : 『ネットにおける“十年”の重み――消されなかったアカウントだけがネットの歴史になっていく』(シロクマの屑籠)

だから何度も書きますけど、“生き残る” ってなんだろう?
っていう。
続いていくことなのか。続いていればいのか?っていう。

生き残ることへの価値ではなくて、生き残るコトへの付加価値のほうが重要になってんじゃないの?っていうさ。
収入が云々じゃなくとも、注目されたい、アクセス数が増えてほしい、共感を抱いてくれる人がいると嬉しいとか。そっちですよね。

それが無い状態で生き残っていくことのなんと寂しいことよ。
人の中にこそ生きての生きてこそ でしょや。


あ、そうだ思い出した、

しかし、【実利を追いかけない=歴史を紡がない】ではないわけで、実利を度外視して表現を追求し続けるようなブログや一個人の喜びや哀しみを記録したブログとて、とにかく長続きさえすれば「歴史」になるのである。そして書き手は(望むと望まざるとに関わらず)インターネットの生き証人となっていく。
(シロクマさんの記事から引用。赤くしたのは私ね。)

なんかで言ってたけどさ、

この世に残ってる過去の“歴史”、って“強者の歴史”だよね。

つまり何かの副産物を生み出したもの、付加価値を与えたものが歴史として刻まれていくんじゃないの?
そしてそれを誰もが望み、求めてるような。

勿論、誰か一人の記憶にでも残ってくれてたらそれでいい、っていうのもある。
けど、えてしてこじれた表現者はなにくその気持ちが強すぎるのか極めて気持ちが萎えがちである。(私が。)

ただ私は弱者の状態で強者を打ちのめしたい気持ちがあるのでなんともなw
(ホルモンの復讐のアレじゃないけどさw)


しっかしさぁ、5年くらいブログやってきててさ、なんの変化も無いのよ。
こうして駄文垂れ流すばかりでさ。
10年頑張ってもどうなん?ってのが強いのよ。
一万時間だっけ?
結局誰かの力のあるところに流れていくだけなんじゃねの?って思ってしまって、ネットの片隅にいる私みたいんトコにはなんの“歴史”も見出されないんじゃないか って思うのよね。

ただの嫉妬なのは自覚してるのだけど。