藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“生きるスキル”

(書きながら考えてたりするので文は色々おかしいところ見られます。(一応の注意。))

生きていくための技術の話ではなくて、生きること自体の技術の話。
だから、どれだけ生きていくために技術が自分自身に備わっていたとしても、生きること自体の技術が自分に備わっていなかったらどうしようも無いな ってふと思った。

…のは、技術信仰っていうか、“人は物”だと、“人は都合や利便や条件ばかり人に求める”と再三言ってきてることに由来するんですけどね。

たとえば“生きる力”とも言う。“生きていくための力”の話ではなく。
たとえば生活していくために身銭を稼ぐとか、そういう話ではなく。

仮に、身銭が稼げない状態になったとしても、“生きる力”がある人は どんなに地べた這いずり回ってでも生きていくでしょうし、“生きる力”が無い人は身銭が稼げなくなるとなったら絶望し死を考えるかもしれないなと。

“生きていくための技術”が無くなったら、“生きる”ことすらも放棄する。



今、たぶん生きている人の大半は、生きるために…働くために・稼ぐために必要な技術を磨くことばかりに終始していて、生きること自体に力をつけるコトは何もしてないよなー ってね。

…うん、いまさら何を?w ってツッコミあるでしょうけどw

“勉強”とかも外付けの技術でさ。学校で必要なのは 年齢と地域だけで集められたすし詰め密室空間を過ごすという義務を、如何にやり過ごすか っていう“生きる力(自体)”のほうがきっとメインの<学ぶこと>でしょうよね。

キッツイよねー。
大人になってもスキルを(外付けの条件を)比べあう必然が待ってるのにさ。

磨くことで光ればいいけど、磨くことで磨り減って消えてしまうこともあるんだよ。
石ころの原石がダイアモンドじゃない石だってたくさんあるんだよ。


だから“役割を果たす”ってコトも疑問だったんですよ。
大きな言い方をすると、『誰しも生まれたからにはお役目がある』とか偉ソーな人は言うやんね。
じゃあ「役割を果たしてさえいればいいのか」と。外付けの技術が備わっていればいいのかと。

外付けの技術を使って、自己成長だと自身を磨いて生きるために磨耗する。それも“勉強”だ?と?

生きるために…稼ぐために心身疲弊させて生きることの何が生きるための行為なのかと。

合わないんですよ。
だから合わないきっとそれは“役目”じゃない。
“役割”を重点してて(客観判断を優先して)自分という“役”になれてない。自分に成(=な=為)れてない。


で、ここで“天職”の話になってもいけなくて。

生きること自体の力が無いと。

欲望のままの子孫繁栄が素晴らしいのか、ホルモンを刺激するものがあればいいのかとか。弱肉強食なんだから弱者は死なんてとっとと受け容れて、弱者であることを嘆いて鬱になること自体が無意味だとか。
人間であっても ほかの動物のように弱者を食い散らかすのが生きる力だ本能だ とか、
そんな盛りのついたサルみたいな極端に振れる思考しか無いのか。と。

…そんな“他者”をあまりに意識した時点で“生きる力”はかなり脆い。


なにより自分を満たす行為が先に。
“外”に合わせるんじゃない。自分に合わせるために。

生き残りをかけた戦いに参加なんてせずに。傍観もせずに。

あー…ジャマなのは見栄とかさ…自尊心が要らないのかな…。

(思いついたまま書いてましたので文章とっ散らかってました。でわ。)