藤麻無有彌の日記:||

藤麻無有彌(とーま・むゆみ)がダラダラしています。

“『自分が見捨てられなければ、なんでもいい。』という話。”

ある意味、このエントリ↓の続き。

[ブログ内リンク] : 『“[ニュース]女性の平均寿命、順位下がる。あと、性差による自殺率。”』

このエントリのタイトルを、『嫌われないように生きること』とか、『怒られないように生きること』とか、どっちにしようかと思ってましたが、こうなりました。


誰でも、
自分が
見捨てられなければ
なんでもいい

と、思ってるような気がしたので。


どこかのショッピングモールとかでね、小さい子が親とはぐれてね、親自体はちょっと角を曲がったところにいるんだけど、小さい子は気付かないやんね。
だから、「どこー?どこー?」と泣き顔で探す。

小さい子が、自分が見捨てられたような気がしたから。ではないかと。そう思う。



会社の…仕事とかでね、特に何か理由があるワケではなく、プランが急遽変更になったりする。それに従わないと、上司に“怒られる”。何故、それをしなくてはいけないのかを 聞 い て は い け な い 。しないと怒られるから。嗜好に合わせないといけない。
怒られたり、噛み付くような真似をすると、人事評価が下がる。給料が下がる恐れがある。

上司が思うような業績を上げないとリストラをされる。

会社から・上司から見捨てられる。



技術的に欲しいものに応えてくれないものに対しては、人格ごとひっくるめて用済み。

テストや通知表で良い成績を修めなければ…親の理想に適わなければ、アンタはダメな子! と激昂。

……そうならないように。見捨てられないように。



出産適齢期を過ぎて、女としては役割を果たせず?
結婚相手に選ばれるように、独身として売れ残らないように、見捨てられないように。

会社に捨てられないようにストレス抱えて必死で仕事をこなす。見捨てられたら…いい年して無職になったらお金を稼げない。就職先が見つからない?

生きていけない?



誰にでも生きる権利はあるのだ と、恫喝して生活保護を得る。別に仕事には・収入には困ってなくても。
法律で保障されてるじゃないか。誰にでも生きる権利はあるのだ。と、確実に見捨てられないだろう ということを後ろ盾にして。ただ強がる。
恫喝する力があるから、見捨てられない“ぜったいあんしんの保険”(比喩ね。) があるから、暴力的な言動を図ることができる。

そして渋々それを許可する役所も、『嫌われると、怒られると あとあと面倒。』、『さらに暴力的な態度を示されたらこちらの生命が脅かされる』と、従う。



「あの人はダメな人」と思われるのがイヤ。

人格、技術、趣味、嗜好、思考、感性。誰とも合わないね。合わないのなら要らないね。…そう思われないように。
無理したり…無理矢理背伸びしたり…ただただ合わない努力をし、根性論で頑張ろうとしてみたりして。話題をなんとか作ろうと人としての面白みを伸ばそうと。人間としての深みを出そうと。

友達から、恋人から、仕事から、その役割を取られないように、見捨てられないように。



そう そして自分がいつでも見捨てる側で居られるように。
見捨てられるのはイヤだけど、何かあったらいつでもソイツを見捨てる。
但し、見捨てられない保険を、後ろ盾を、しっかり用意して。

何かやらかしても守ってくれるような環境を用意。
暴力的な力を、権力を、経済力を使って。


世間から、社会から見捨てられないように。 …?



……というように、
わざわざ必死こいたり狡猾であったり、いちいち神経すり減らす必要がどこにあるというのか?
そうまでして見捨てられないようにと 脅えなければいけないんだろうか。

誰かに選ばれなければいけない人生である必要があるのか。

死や孤独に恐れるように。
死や孤独を作り出す環境を避けるために。

…これは 孤独であることが惨めである という価値観から来ているのかしら。

今回のエントリはね、だからといって一人になれ! ってワケではなく、人間関係などで無理を押してまで維持しなければいけない必要がどこにあるのか? ってコトなんです。
が、
だからといって、あまりにもひとりよがりに人を選別して付き合うのも如何なものかとも思うワケです。
それは他人を見捨てている立場に過ぎないだけ とも言えるものもあるので。

一概にはなんとも言えませんけどね。

ただ 家族や会社、友人関係でも、集団に対しての帰属意識が非常に強いと、窮屈に感じるものもありましょうが。


けど、集団に対しての帰属意識が高くても、いずれその集団はなくなる。
会社なんて、何年も続く有力企業といっても、栄枯盛衰、諸行無常。いつまで持つかなんて分からない。自分が所属している間だけ取り敢えず“持てば”いい というような考えではあまりにも目先の利益にしがみつき過ぎる。短絡的すぎる。

自分の生きてる間だけ、税収が円滑に回り 保障が行き届いていればいい。…だなんて、子どもにどんな生き方を示して差し上げるのでしょうか。
なんだかよく分からない保養施設に何億と使ったり………ね。


家族や友人関係とかは、入れ替わりながら所属していくのかもしれませんが。




嫌われないように、怒られないように生きること。見捨てられないように生きること。

いずれ年齢を重ねて、筋力など健康は衰え、喋りもおぼつかなくなる。

『生産能力の無いヤツはゴミだ。生産的な生活をしていないなんて、無為な生活をし続けるなんて人として終わってる。』
……と罵倒してた人に、いずれなる。必ずなる。

そうなったとき見捨てるのか、都合や立場から仕方なく世話するのか。
敬意や謝辞、愛情を込めてそのときを支えるのか。

でも死ぬときは一人で旅立つ。
それは“私がこの世界を捨てるのか”、“私はこの世界から要らなくなった・捨てられた”と思うのか。

“果たした”と思うのか。


自分の幸せの前に、他人の幸せ。…などと博愛なのかボランティア精神なのか、けどそれは無理だ。
先に自分が幸せでないと、他人を幸せに出来ないから。
だから自分本位なのは免れられない。

ただ、そこへのあまりにも執着が過度すぎて、どこかおかしい。
今回はその疑問までに。




(書き終わったあとのこのエントリの客観的視点ですけど、なんかイマイチ感情が入ってない文に感じるな。自分を置き去りにして他人事にしてるように感じるな。近いうちにまた同じテーマで書きます。)